熊本教育ネットワークユニオン

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日本で死刑をしないときがあったのを知らなかった。

日本で死刑をしないときがあったのを知らなかった。


 平安時代の350年間ほどらしい。
 2021年時点で「108か国がすべての犯罪において死刑を廃止し、144か国が法律上或いは事実上、死刑を廃止している」と。フランスでは国民の多くは制度に賛成の多いなかで、1981年に廃止されとのこと。日本では賛成の人が多いらしく、存続を支えることになっているのか。「なんの罪もない人が殺され、、」という表現を見かけると、罪のある人なら殺す、ということも含まれているようで、死刑制度を是認するようすりこまれているのではと思われる。
 私は、死刑のことは、考えたことのない時は、考えないゆえに傍観的賛成の立場に位置していたと思う。先輩から、「死刑を仕事として執行している人がいる。何人かでどの人が実際の殺すことをしたのか分からないような形で行うが、執行したら、心に痛みを感じるらしい」と聞いてから、疑問を感じるようになった。仕事して心が痛む。自らの心を痛めるのが仕事というのは疑問である。
 平安時代の行われなかったのは、①穢れと見たこと②因果応報という宗教から③死人が天災などを起こす怨霊となるというようなことで、朝廷は殺さず島流しにしたと。武士が台頭してきて死刑がなされるようになり、現在も、殺された身内の人でも、犯人に死刑を求めない人がいるというのを過日新聞でみた。その立場になってみないと分からず、「その立場になって考えてみろ」と言われると、犯人に死刑をと思うのだろうと考えていたが、どうもそれだけではないとわかった。死刑制度があるから凶悪犯罪はなくなるというのは、もう成り立たないのではないか。「死刑になりたかったから事件起こした」という犯人も出ている(もちろんそれは間違ってることで許されることではない。抑止になってないということだ)。
 死は誰も避けられないことで、全てが無になる。しかし、病気や事故、寿命で死はある。人がどうすることもできない。そこには人の力は及ばない。死刑という、死を人為的になせるものなのか。戦争も死を強いている。