熊本教育ネットワークユニオン

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「ミヤネ屋」騒動記

「ミヤネ屋」騒動記

 あの恐ろしい豪雨から3週間も経ったというのに、まだ梅雨は明けていなかった。そしてこの日も終日、人吉球磨地方には大雨警報が出されていた。市の災害対策本部は早々に「本日の復旧ボランティアの受け入れは中止します。」と宣言した。現場へ向かうわが家族(妻と長男と私の3人)も、「今日は時間との勝負だ。雨脚が強くなれば高速道路が閉鎖される。その前に引き上げよう。」などと話をしていた。ところがそこで、例の山岳会会長から電話である。「今、現場へ向かっています。今日は20人弱です。あと30分ぐらいで到着します。」「ホホーッ、今日も来てくれるんだって。じゃあ急がなくちゃ。」俄然勇気が湧いた。そして、我々が到着しておよそ20分後、いつもの見慣れた中型バスが現れた。堂々と、悠然と、実にかっこいい姿である。
 折から雷鳴が轟いた。短時間で身支度を調えると、支援隊の皆さんは躍るように作業にかかった。会長さんが作業の予定を教えてくれる。「今日は外に積み上げてある被災物を集積場に運ぶだけです。軽トラと大型トラックも借りているので2,3時間で終わるでしょう。」何という手際の良さだろう。(このボランティア隊のこと、およびこれまでの経緯を理解していただくには更に10数行の説明が必要だと思われるので省略します。『ユニオン通信』’21年1月17日号「『どん底』から笑顔へ」をご参照ください。)
 幸い雷は治まったが雨は断続的に降り続いた。九日町通りの各店、各家々も今日に限っては家族だけでの復旧作業のようで、外部からのお助け隊が来ているのはわが家だけだった。この幸運を、本当に何と表現していいのか分からない。するとそこへ、明らかにお助け隊とは異なる服装をした若者たち5人がやってきた。一人が大きなマイクを、別の一人が大型で立派なカメラを担いでいる。「ははあテレビ取材だな。」とすぐに分かる。上着にはYTVの刺繍が入っている。あえて自分から声をかけた。 
 「朝早くから御苦労さまです。今朝はどちらから。」
 「ゆうべは福岡に泊まっていました。今朝早く人吉に着きました。」
 「YTVって、読売テレビでしょ。こっちでは放送していませんね。」
 「いいえ、『ミヤネ屋』ていう番組の……。私たちはそのスタッフです。」
 「ああ、『ミヤネ屋』ね、知っていますよ。」
(意外と自分が高飛車に出ている。)
 「それで、この取材がいつか放送されるの。」
 「間違いなく放送します。今日。」
 「今日!!」
 「はい、3時頃からの中継の中で。」

 カメラマンは早くも支援隊の作業の様子をカメラに収めていた。続いてインタヴューである。マイクはまず会長の方へ向かった。この人は新聞やテレビでもたびたび取り上げられる有名人で、したがって矢継ぎ早に繰り出される質問にも坦々と応じていた。次に被災者であるわが家族の順番だ。代表して私だけかと思ったら、そうではない。妻にもそして息子にも、似たような質問をいくつも投げかけるのだった。名前やその名の漢字表記まで聞いてきたので、ははあテロップで流すためだな、などと好意的にとらえることにした。しかし雨は相変わらず止む気配がない。インタヴューの最中には益々強まって、合羽を伝って大粒の滴が流れ落ちる有様だ。これじゃあ絵面も何もあったものじゃないだろう、しかしそこは編集で上手くやってくれるのだろう、などと素人らしく呑気に構えていた。が、体はだんだん冷えてきた。
 やがてすべての作業が終わった。まだ正午前だった。雨と泥で支援隊員の作業着はとことん汚れていたが、何せこの雨である。着がえる所とてなく、彼らは次々にバスに乗り込んでいった。「一言挨拶をさせてください。皆さんに感謝の気持ちを伝えたいので。」と会長にお願いして、自分もバスに乗り込んだ。すると、何とテレビカメラもついてくるのだ、あの狭いステップを割り込むようにして。「三日間のご奮闘のおかげで、すべての被災物の撤去、搬出、運搬が終了しました。皆さんの圧倒的な力には感動するばかりでした。本当にお礼の言葉もありません。団結する心の力強さも教えられた気がします。熱中症とコロナには十分注意されて今後も更にご活躍を、云々。」などと語った記憶がある。カメラはバスの中の様子も映していた。
 そのバスを見送って、われわれも直ちに帰路についた。3時の「ミヤネ屋」の放送に間に合うようにと。妻と息子が、大阪にいる次男、福岡にいる長女と連絡を取って、「今日の『ミヤネ屋』を録画しておくように。」と伝えた。なぜかは言わないで。果たして……。午後2時前には自宅に着いた。直ちにテレビをつける。コロナに関する話題で、昭和○○大学の先生の話が長々と続いた。そしてついにやってきた、午後3時。テレビ画面が人吉市青井神社前からの中継に切り替わった。キャスターが、なかなか復旧が進まない現状を伝える。現場のカメラが赤い鳥居や蓮池の様子をパーンする。そして2,3分後、ほんの一瞬(時間にして10秒)、録画が流された。それは会長でもわが家族の誰かでもなく、バスの中のボランティア隊の、作業を終えてほっと一息ついている様子だった。冷たい雨の中、あんなに長く立たされたというのに…。取材陣だって、1時間以上もカメラを回したはずなのに…。その夜、県外の二人から問い合わせが来たのは言うまでもない。「何で録画を取らせたの。」
                  (熊本教育ネットワークユニオン・S)