熊本教育ネットワークユニオン

活動の報告と相談の窓口です。またブログ担当者の学習の跡でもあります。過去の記事をご覧になるときは下のメニュー欄をクリックください

MENU

侏儒の呟き(9)

       侏儒の呟き(9)

○婉曲表現や責任を回避する表現が流行っている昨今(のよう)です。なぜ自分の言葉を曖昧にするのか。その理由としては、時代背景もあるのかも知れませんが、英語学徒である私には、主語を明示しない、或いはする必要がない日本語の特質も関係しているのではないかと思います(知らんけど)。とは言え、私たちは公開されているブログに投稿している訳です。なるべく正統的な言葉を使う必要があると考えます。そのように心がけます。ただし文脈上、人の名前を呼び捨てにすることがあります。そこはご容赦を。

○新聞切り抜きのスクラップブックが増えてしようがない。どうせ一過性のニュースだからと無視していれば、それはそれで国は動いてゆくのかも知れない。しかし、どれもこれもイデオロギーの根幹に関わる重大な問題ばかりである。国民の一人として黙っていることはできない。
 いつから岸田は反動的な政治家になったのか。それとも、本来その素質を備えていたのにハト派面をしていただけだったのか。どうしてこんなに、素人にも分かりやすい低級な政治ショーを繰り広げるのか。この半年間だけでも、ウィーン会議(核禁止条約第1回締約国会議)への欠席から始まって、国葬儀問題、中国やロシア、北朝鮮との対話拒否の姿勢、原発回帰への諸策動、防衛予算の驚愕の増額案、更には戦後の安保政策の大転換と矢継ぎ早である。しかもこれらはすべて、国会に諮ることなく内々で決めたことばかりだ。ここにきて、岸田の鉄面皮宰相ぶりは安倍のそれを凌ぐ勢いとなったかのようである。この間、閣僚の更迭も相次いで、ほとんど内閣の体をなしていないではないか。が、すべてに反論する余地はない。ここでは次の一点にだけ、自分なりの手記を残しておきたい。

○改めて原子力の行方を自問する。福島から「フクシマ」へ。一時期、新聞や雑誌でそんな文字が踊ることがあった。かつて不本意にもヒロシマナガサキ、ミナマタと表記することになってしまった人為の過ちを、我々はまたも繰り返すことになったのだった。理性も感性も併せ持った人類が、どうして似たような悲劇を招き寄せるのか。あの大事故から間もなく12年になろうとするのに、今なお後処理に躓いている。建物撤去への道筋どころか住民帰還の青写真さえ示せないという遅滞ぶりである。先が全く見通せない。ただただ不安と不透明さが滲み出てくる現状だ。被災者への同情、事故を惹き起こした者たちへの怒り、迅速に事を進められない政治家どもへの不満、不信、諦め等々の情念が湧き上がって、わが悟性は人間の不作為という理解しがたい暴挙にかき乱される。
 こういう中で、岸田は老朽原発の再利用と新たな原発建設という方針を打ち出した。開いた口が塞がらないとはこのことだ。「原子力規制委員会」(とは名ばかりで、隠れ蓑を着た推進委員会)の腑抜けどもがそれを後押ししている。事実を覆い隠すことを心得ている者たちは、人々を誤魔化すのもまた巧みである。20世紀、21世紀に生きる現代人が10数万年後の子孫たちにまで核のゴミを残そうとしている。この事実まで誤魔化すことができるのか。問われているのは、今を生きるわれわれの知恵と良識と責任である。知らぬふりなど絶対にできない。
                       (ネットワークユニオン・S)