熊本教育ネットワークユニオン

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憲法9条は、人によって死をつくってはいけないということ

憲法9条は、人によって死をつくってはいけないということ

    作家の平野啓一郎さんは死刑制度存置派から廃止派に変わったという。小説「決壊」を書いてから。
    殺された遺族のことを思えば、犯人も死で償えという気持ちになるだろう、という「思い(忖度?)」から存置派。漠然?と、そう死刑を肯定する人がいないか。
自分もそう思っていた。
    だが、自分は大野滋という尊敬する先輩からの、「死刑執行する人の苦しみを考えてるのか」という問いから、存置に疑問を持つようになった。そして、人の努力でどうすることもできない命を人が亡くすのは間違いであると廃止派になった。平野さんは、「決壊」を書くことでわかった冤罪の存在である。
    免田栄さんは、裁判で死刑となったが、再審で無罪となり冤罪であることが確認された。袴田さん、石川さんは冤罪であると再審を要求して闘われている。再審の闘いがなされてるので知るが、このことから冤罪で死刑にされた人がいると思わざるを得ない。自分のやったことでないのに罰されるのは間違いだ。しかも、死を課すのは 絶対許されないことではないか。
    この冤罪によって死刑された人のことを平野さんは思いやっていなかったという。
考えてみると、自分もそうだったと思う。殺された遺族の思いは忖度するが、死刑された、まして冤罪で死刑にされただろう人の思いを考えることはなかった。

    間違いはしないがよいが、どうしても間違いをしてしまうのが人ではないか。やり直すべきだし、やり直すことができるから「ごめんなさい。まちがってたから訂正する」と言い得ると思う。だが、死は終わり、あとはない、できない。不可能。
    国会で118回も嘘ついた世襲の政治家が殺された。これもあってはならないことであるが、この世襲政治家の言から発し、記録を改ざんさせられ自殺に追い込まれた赤木さんがいた。この世襲政治家のかかわりが明らかになった統一協会に1億も寄付させられ家庭を壊された人もいる。死がつきまとうが、死が死をもってあがなうことではないと思う。
    ウクライナの戦争で、戦争は自宅に弾が飛んでくる「死」でしかないと見る。だが、自宅に弾が飛んできてからしかわからない人もいるのではないかと思いもする。
ただはっきりしていることは戦争の放棄は、人によりなされる死を許さないということである。

 (M)