昨日読んだ1冊
森鴎外は森林太郎という名だそうだ。小さい時「あんじゅとずしおう」という絵本を見たことがある。焼いた鉄で折檻する場面とか安寿と厨子王が逃げるところなど「恐ろしく」も「はらはら」する物語だった。高校の「現代国語」の授業で山椒大夫という教材から森鴎外が書いていることを知った。
今日まで、夏目漱石と森鴎外が同時代を生きた小説家程度の認識で、夏目漱石が熊本にゆかりのあることでやや親しみを感じてはいた。その程度だった。もちろん森鴎外は医者でもあったことは後に知ってはいた。
昨日の1冊は「脚気の歴史」(板倉聖宜)である。仮説社のやまねこブックレット3で70ページ程度で2~3時間で読める。「栄養」の授業でビタミン発見史を調べているなかで読んだ1冊である。
要約するのが面倒だから、amazonの紹介を下に転載する。
明治維新後,日本は積極的に欧米の文化を模倣してきた。だが,欧米には存在しない,米食地帯に固有の奇病「脚気」だけは,日本の科学者が自らの創造性を発揮して解決しなければならなかった。しかし……。
日清戦争・日露戦争の二つの戦争の裏で行なわれていた,科学者達のもう1つの戦争。「創造性とは何か」そして,「創造性を阻害するものとは何か」を描く名著『模倣の時代』の簡約版。
先日、熊本の偉人伝風の郷土愛鼓舞(?)のためのテレビ番組「北里柴三郎」を見たが医学界の人間関係のどろどろとしたところが垣間見れて当時の日本医学会の様子に興味を持ったばかりであったが、「脚気の歴史」に登場のお医者さんは呆れるほど「人間的」。そう、今の政界の人間模様と通じるか?あるいはNHKBS時代劇「金と銀」の人間の嫉妬心とも通じるか?人がもっと理性的に他の人の幸せを考えるようになればと願うばかりである。
「脚気の歴史」は江戸時代末期に将軍家定(あの篤姫の夫)の脚気の治療に漢方医だけでなく蘭方医を使うことから始まる。漢方医、蘭方医の努力むなしく家定は死去。つづく将軍家茂(和宮の夫)も脚気(脚気衝心)で死亡と、脚気は徳川13代14代の将軍の命を奪う。明治維新後、明治天皇も脚気に罹る。そして陸軍の兵士たちを脚気が襲う。
日清戦争では脚気が4万8千人、脚気死亡者が2410人、戦傷死者が453人という記録があり、戦傷死者の5倍以上が脚気で死んでいる。日露戦争では脚気患者が21万2千人、脚気死亡者が2万8000人、戦傷死者が4万7000人という記録がある。旅順で外国人は「日本の兵隊は酒に酔って戦争をしている」と脚気の症状を誤解し評したという(ロシア軍は腸チフス)。
問題は、これらの戦争前に、脚気は「白米から麦飯にかえると」激減する(3000人から30人という割合)という事実があり、戦時以外では各師団は麦飯に変更していたのだ。また海軍は戦時下でも麦飯を使い脚気はほとんど出なかった。ではなぜ陸軍には麦飯が供されなかったのか。
漢方と蘭方の対立の尾を引き、西洋医学にかじを切った明治政府の医学界の指導者たち東大医学部出身の小池正直や森林太郎(鴎外)の(麦飯支給への)反対があったのだ。
「脚気の歴史」から引用する。「白米のみを支給した表向きの責任者は小池正直であったが、その背後にあたって牽制していたのは森林太郎だと言って間違いないだろう。西洋医学の優等生だった森林太郎にとっては、西洋医学の教えること以外は考えられなかったのである。」
「山椒大夫」も彼のオリジナルではなく、中世の「説教節」からのものである。
先日、あるお医者さんとの会話。小林「私は食事や運動などで血圧を直そうと思っています」「事実、体重を下げ運動を行い血圧を下げました」。お医者さん「血圧が高いのは血管が堅くなっているのです。血圧は治りません!!」
患者に学ぼうとしない、あるいは現実に(麦飯で脚気が激減した)学ぼうとしないのはこの国の医者の伝統か?
原田正純先生は、患者さんやその親に学んで医者になりましたと言われていた。