熊本教育ネットワークユニオン

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夢のその先は……(その1)

 

夢のその先は……(その1)

         

            (1)

 夢を忘れてはいけない。夢は常に見続けていなければならない。そう思ってまた山に入るのである。だがなぜか、春の山は人を容易に夢想の世界に遊ばせてくれない。うつらうつらして、眠気があるのに深い眠りに入れない。何だか常に意識が邪魔をする。そんな感覚に近いものを感じるのが春山だ。

 登山口までのおよそ一時間を、バッハのロ短調ミサ曲を聞きながらドライブした。そのため気分はかなり昂揚していた。山登りに宗教曲とは、世間の常識から見れば随分風変わりな組み合わせであろう。だが春の山を全身で受け止めたいと思っている者には、柔軟な感性こそ必要なのだ。学生時代に合唱を経験し、その後もずっと古典音楽を聞き続けてきたこの自分にとって、バッハの音楽は少しも異質でなく、心を安定させる手段の一つである。

 

         (2)

 山椿(あるいは薮椿)の道がしばらく続く。桜と違って椿はパラパラと花びらを落とすのではない。木を飾っていた時のままに、筒の形を保ったままで萼から外れ、思い切りよく落下するのだ。落ちる時、彼らは何かを叫んだだろうか。今、地面に横たわっている姿は何だか無念を語っているようである。

薮椿落ちて時間の止まりけり

 岩の裂け目に二株の菫が咲いている。微かな風がきて、その小さな花と葉を揺らす。いかにも小さないのちである。かよわいいのちである。そのすぐ横を、荒い息遣いをした人間どもが遠慮もなしに歩いて行く。大きく硬い靴でズカズカと。過って踏んでしまえば、そこでこの花は萎れてしまうだろう。やがて、春の光の中で死に絶えてゆくだろう。いや待てよ。そもそもいのちに大きい、小さいがあるのだろうか。花も人も、生きていることに違いはない。ならば、いのちの大きさだって違いはないのではないか。あるとすれば、それは生きていくためのエネルギーの違いなのではないか。

 

         (3)

 山頂。岩の上に立ち、いつものように樹海を見おろしてみる。高度感も遠近感も麻痺をして、危うく吸い込まれそうになる。かつて、鳶が悠然と弧を描くのを眺めていたことがある。普通なら見上げるものを、この場所では見下ろすのであった。もし人間も、彼らのように飛ぶことができるのならばと想像してみたくなる。旋回も、急上昇も急降下も思いのまま。青い空も豊かな森も、果ては遠くの海までも、見えるものはすべて自分のものである……。

 いつの間にか目をつぶり、両手を広げているのであった。ところがそこで、はっと我に返る。現実世界に引き戻される。そして、ああ夢でなくてよかったとほっとする。もう一度樹海を見下ろしてみる。今度は岩にしがみついて。耳を澄ますと、無数の野鳥たちの囀りが遙か彼方から谺してくる。それもまた、夢の続きのようだった。               

                      (熊本教育ネットワークユニオン・S)

 

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