熊本教育ネットワークユニオン

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その名前は

 11月上旬、学校の体育館で講演を聞いた。2年前の豪雨で甚大な浸水被害に遭った人吉の焼酎醸造元の方が話された。その方は元高校教員で、30年くらい前に現任校で同勤していた。そして、かつての勤務校で私が授業した生徒でもあった。

 たまたま教室に掲示してあったこの講演のプリントを見た。授業の空き日なので、そのまま半分忘れていた。印刷などを短時間しようと午後から学校に出てきたら、日程変更になっていて講演があることを思い出した。せっかくだから、さわりだけでも聞いてすぐに帰ろかなくらいに思った。

 講演の最初で、家毎流され行方不明になった同級生の名前が出てきた。しばらくしてから、八代海で遺体が発見された。その同級生は私が40年くらい前に1年生のクラス担任をした生徒であった。

 2年前、報道で名前を見たときに、もしやとの想いが頭をよぎった。ファイルを引っ張りだし、名票とクラス写真を確認した。1年生で小柄だが、浅黒く眼がクリッとした純朴な生徒という印象が残っている。どういう訳か、家庭訪問したときの家の場所がすぐに思い浮かんだ。

 クラス担任を25回くらいはしたと思う。担任した学年は覚えている。50代までは何組だったかも覚えていたと思うが、今は半分以上抜けてしまった。生徒の名前も顔も忘れたり、あやふやになっている。

 家庭訪問は、県下各地で主に1年担任の時にかなりの数行った。以前は、車でたまたま通りがかったときに、ふと誰々の家があったなと浮かんでいたように思う。少数の生徒の家は思い出すが、大部分は忘れてしまった。

 ところが、その生徒の家はハッキリと覚えていた。肥薩線の駅の真ん前で道を挟んだところにあり、家の後ろは球磨川だった。保護者ともお会いしたと思う。2年前は単純に両親だっただろうと思ったが、講演の後で思い直してみると年配の方だったようにも思えた。村会議員をしたと聞いた気もするので、祖父がおられたようにも思う。なにせ40年前である。全くもって自信がない。

 講演では、ボランティア、同級生などの支援、義援金、酒蔵の再建、新しい焼酎のことなどの話があった。苦難の中にもいろいろな人と繋がり乗り越えていこうとする姿とその人たちの温かさに感銘を受けた。すぐに帰ろうと思っていたのに、とうとう最後までいた。

 講演後、体育館の前で久しぶりにお会いした。マスクした私の顔でも、すぐに思い出されたようだった。その同級生の1年の担任だったことを伝えた。短時間お話をした。長年付き合いが続いて、行き来していたそうだ。家の後ろがすぐに球磨川で、夜は特に音が聞こえて落ち着かなかったという話も出た。

 講演の中でも、球磨川は怖いが、好きだと言われていたと思う。人吉は、教職2校目で7年間過ごした思い出深い地である。復旧・復興を切に願う。

 

 11月中旬、5回目のコロナワクチン接種を受けた。今までと同じ会社のワクチン(オミクロンBA.4/5用)を打つことができた。4回は同じ耳鼻科病院で受けたが、接種日が遅い。できるだけ早いほうが良いと思い、初めて違う小児科病院に予約した。

 当日、小児科なのに年配者が多い。子ども連れは少数のようだ。年配でない人もいるが、4回目なのかもしれない。耳鼻科病院では医者の問診のあと注射は看護師が行ったが、ここでは注射も医者が行った。接種後、車で15分ほど待機した。両隣の車にも待機する人がいたが、先に出ていった。

 コロナワクチン予約システムで検索すると、接種枠は小児科病院の方が早く表示されるように思う。アナフィラキシーショックでの死亡記事などを見るが、学校に勤めているからには積極的に接種しようと思っている。

 インフルエンザワクチンは接種した記憶が無い。たまに熱発しても、熱は長続きせずに下がった。一度だけ受けたインフルエンザ検査でも陽性にはならなかった。今後の展開がどうなるか予測できないが、非常勤講師を辞めたら、今とは違う感覚になるだろう。


(熊本教育ネットワークユニオン true myself)