熊本教育ネットワークユニオン

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 「気」と「間」

 「気」と「間」

 

 昨(1/20)夜、人吉で開催された「川辺川ダム反対学習会」から帰宅してテレビを見ていると、大相撲のニュースで正代が横綱照冨士に勝ったと言っている。6年ぶりの「金星」だそうだ。が、大関をはじめ長く三役にいたわけだから、今時「金星」は恥ずかしかろうと思った。案の定、今日の朝刊によると「番付を落としたからこそ手にした金星への感慨を問われて『僕の中で元大関って忘れたいくらい』とぽそり。後ろ向きなコメントが妙味の正代節で報道陣をくすりと笑わせた」とある。地元の力士として、以前勤務した高校の卒業生として正代を応援しているが、彼らしいコメントだなあと苦笑した。

 

 以前は、本場所も「興行」的なところがあったが、若貴時代からほぼガチンコ勝負になっていて面白い。仕切り直しの度に塩をまいてじわじわと勝負への「気」が熟し、観客も最高潮を迎えたその時「時間」となり、体がぶつかり合う。何とも日本的だ。それ以上に、相撲(日本相撲協会の大相撲)の「立合い」は不思議だ。行事は「待ったなし」「腰をおろして」「手をついて」とまでは言うが「はじめぃ!」とは言わない。力士同士が呼吸をあわせて、つまり競技者同士の合意によってはじめて競技が始まる。こんなスポーツは他に思い当たらない。

 

 音楽にも似たところがある。たとえばオーケストラ(交響楽団管弦楽団)にはコンダクター(指揮者)がいて、曲全体を取り仕切るが、三重奏や四重奏では(多少奏者が多くても)コンダクターなしで、「気を合わせ」て曲が始まり、「気を合わせて」クレシェンド・デクレシェンドをし、「気を合わせて」休符から解放される。

 小澤征爾によると、「三重奏や四重奏を次第に大きくしたのがオーケストラであって楽団員の『気』さえ合っていれば、コンダクターは要らない」これは桐朋学園で薫陶を受けた齋藤秀雄先生の言葉だという。彼が率いた「サイトウキネンオーケストラ」は、そのような仲間たちで構成され、見事な演奏で世界中のファンをうならせた。願わくば、病気から回復した小澤征爾さん指揮するサイトウキネンオーケストラの、ブラームス1番やチャイコフスキーの弦楽セレナードを聴きたい、観たい。

 

 ブラームス交響曲1番は私の大好きな曲の一つで、様々な指揮者の演奏を聴いたが、長野県松本市でサイトウキネンオーケストラを始めた頃の、小澤征爾の演奏が一番好きで、これにまさる演奏はないと思っている。へー、こんなところにこんなトランペットの音があったのかと感心したりしたが、特に心引かれたのは、休符の扱い方、つまり「間(ま)」の取り方だ、285小節目の四分休符もそう感じるし、最後の最後456小節目の四分休符と二分休符が微妙(ほんの0.0何秒)な「間」で457小節目の強烈な全音符が鳴り響く。終曲を迎えて一瞬の静寂(間)の後、拍手が鳴り止まないのも魅力だ。

 

 長谷川等伯の「松林図」や能・狂言を引くまでもないが、日本人の「間」の感覚は本当に優れていると思う。剣道や空手道もなるほど「間」が最も大切な要素の一つだ。

 

 振り返ってみると、最近の私の生活からは、いろいろと「間」が奪われて「間抜け」になっているような気がしてならない。如何せん!

 

 ちなみに、このブログ執筆中に、正代はあっという「間」に阿炎に押し出された。

(Trout 2024.1.21