熊本教育ネットワークユニオン

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平行線、と言うつながり

平行線、と言うつながり


 今年の年賀状に私は古希、と書いた。冷静になり、「人生70古来稀なりなり」なら、71歳の私は、ウソッパチではないか。またはそれは知らずに書いたなら恥では。今更ごめんなさいと、書いて送るのもなあ、右往左往するばかり。
 そして5月の連休に中学の同窓会があった。それは古希同窓会と銘打っていた。ああそうか、この通知を受け取ってたので、古希と書いたのだ。まあ、この古希同窓会なので、恥もウソッパチもふきとんだ。

 東京から数人参加。うち一人孝市は、映画の美術監督している。驚いたことに、吉永小百合さんとのツーショットがあり、他の俳優とのツーショット、私の嫌いなシンゾー(孝市は、お前が嫌いだろうけど、と言った)とのツーショットの写真を見せた。
 彼が中一の時、私は彼の横の席であった。英語の試験の時、監督の英語の先生である谷口先生は怒鳴った。「その消しゴムを持ってこーい」
 私は仕方なく消しゴムを持っていった。その消しゴムにはgoatと書いていた。単語の問題で、ヤギは何か。隣の男は「ヤギ」と消しゴムに書いて私に渡した。私は解答のgoatを書いて彼に渡そうとしたとき、谷口先生は怒鳴った。
 消しゴムを谷口先生に渡すやいなや、パンチが飛んだ。ぐー。ワタシの左ほほにヒットした。
 このあと、私は、はえある学級委員長の座をうしなった。でも、この谷口先生は好きだったので、トイレでつれションするとき、「あつし、つまらんことはするな」と言われたかどうか知らないが、谷口先生が、好きなことも、彼、孝市が同じ野球部で一緒に遊んだことも変わらなかった。私はショートで彼はキャッチャー。彼のバットは球にめったにあたらないが、あたるとホームラン級であった。だが、彼は走るのが遅すぎた。大体ヒットになる当たりでもらくらくアウトになった。といっても、「おすかねー」というしかない。

 そんな彼が同じく熊本市の高校生となった。私の下宿にきて、タバコを吸ったのは忘れてしまった。私は彼に「この下宿で、タバコはすわんでくれ」と言ったらしいが、思い出せない。私はひたすら勉強しようと思っていた。だが、眠気のみがまさる日々。試験中も頭をフラフラと回転させ、国語のアラキ先生から、オイと言われ頭をこづかれたこともある。一方孝市は私の高校のすぐ隣にある高校で3500人をまとめるべく応援団にいたという。その後私は学業に悶々とし、孝市は「締め」に熱中していたようで、つながりは切れていた。
 私の叔父は東京にいて、そこでこ
の町出身の集まりがあるらしかった。ある日「あつし、孝市は知ってる?」と連絡があり、それから孝市と連絡できたのは定年すぎて2年。今から9年ほど前か。早速東京に、出かけた。東京在住の中学同期の人と旧交を温めた。 
 それから9年ほどあとの再会である古希同窓会。それまでに「チルソクの夏」という日本と韓国の高校生のあまくも叶わぬ恋、「なごり雪」でエンディングする映画をみた。「はやぶさ、はるかなる帰還」「日輪の遺産」もあった。美術監督は孝市。
 古希を過ぎた我々は偏見で話す。残念だが、日教組への偏見に侵されている。むろん承知。メディアの考え操作はすさまじい。

    「お前は『話が平行線』、と言ったが、交わることもあったぞ」と孝市は言う。共にカンニングした友と「平行線」と言いあうのが、繋がってることだと今はわかる。「あの頃俺は、学校の勉強はせずに、なんでも、どうしたらいいかばかり考えていた。教科書を開いたこともなかった。」そうなのか。私はただ勉強をしないだけかと思っていたが、孝市は、他のことを一生懸命考えていたのだった。「お前がクマタカにいってクマダイにはいったのを、俺は自慢しとったっぞ。なんやクマダイはつこけたつか。クマダイはツコケてカダイだったつか。」。なんか差別意識満載だな。(いやでも、自分のことを自慢してくれるのは、嬉しかった)
 「俺は三Kを、気づき、感動、感謝、とする」なかなかの言葉が出てくる。
 「夕凪の街、桜の国はぜひ見て感想をくれ。」孝市は、平和の映画もつくっていた。
 「俺の友達に、『はやぶさ遥かなる帰還』など、映画の美術監督がおるよ」などと自慢する。人の頑張りが自分の自慢になるはずはないとわかっていても。「はるかなるカンニング」でつくられた絆があるという確認か?。蛇足ながら、教卓からカンニングはすぐ見えるし、推奨するものでもない。

(M)