あったりしますか?
語尾あげを聞くのも流れるようになった。最初は疑問(自信のなさ?)というように我にも彼にも表現しているだけかと思った。トラウトさんの投稿を読んで、婉曲表現大盛時代だと思う。責任をとらないですむように語られるようになってきつつあるのか。それにしては、責任はあります、丁寧に説明する、という政治家の言葉は、それで終わり、言葉を壊しているとしか思われないが、一向にただされるようでもない。そのうち、宿題忘れた子が「忘れた責任は私にあります。丁寧に説明します」と、先生にいって、それで終わる、という日がくるのであろう。
月2~3回ぼうレンタルやで働いている私は、「○○はあったりしますか?」と問われた。30歳台の人から。あちらです。と答えたものの、どこにありますか、と言わないのかなと思ってしまう。許せないというのではないが、このへんの心をどう述べるか不可能である。あったが、いいけど、なかったら貴方ががっかりするから、無くてもいいんですよ。でももしひょっとしてあったならとてもタスカリマス。ということで、最上級の表現してるのかもしれない。
だが、あったりの、たりはまだ、私の心は馴れてない。(中学生の時、藤原のかたまりと読んだ人がいて、たのしかった。真剣に読んでいたので誰も笑わなかった)
トランペットの旅は続いている。上唇の真ん中あたりがきれた。よかった。やっとまともな吹きかたになったと思う。
高音が、でるためにはなにが必要かと調べて、密度と張力に関係するとわかった。唇を引っ張ることがどれだけできるかがひとつの鍵だった。口の回りの筋肉もある程度までになったと思う。あとは密度を小さくするための唇の揺れる部分をどれだけ短くするかと思った。当然唇の真ん中辺りが中心になると思われる。
マウスピースを上唇からあて、下唇は少し下ぎみにあて、息が真っ直ぐ出るようにふく。
すると、なんとかハイBがでる。これでソから2オクターブ上のソさらにラシドと2オクターブ半くらいになる。
ダニーボーイと夜空のトランペットを、安定して演奏できるのも間近となる。15年はかかっている長い長い旅はゴールになったりする、、、、かもしれない。