肥後の古刹を巡る~その3・八丁山と春光寺~
(山麓、山中にて歴史の一端を学ぶ)
八代市の東側に位置する連山は、地理的に言えば九州山地が最も海側にせり出した地域である。高さはせいぜい600メートルに過ぎないものの、山好きには魅力的なピークがいくつもあり、またゆったりと美しい稜線を引く峰があったりと、絵になる風景が広がっている。よく見るとその背後にはもっと高い山も顔を出していて、一大山岳王国の様を呈している。その中で最も市街地に近いのが八丁山(標高376メートル)である。すぐ南側には球磨川が迫っている。「熊本緑の百景」にも選定され豊かな自然が残されている。数年前の冬と春、続けてこの山に登ってみた。
山麓には春光寺という古寺があった。旧八代城主、松井家の菩提寺だったそうだ。そしてそのすぐ隣には古麓稲荷神社があって、連続する赤い鳥居が急な石段を跨いでいた。その場に立つだけで典型的な神仏混合の歴史が見えてくるという訳である。登路はその石段を利用するようだ。樹齢二、三百年と思われるカシやシイ、タブ、クスノキ等の巨木が見上げる高さで聳えていて、中腹の「奥の院」まで続いていた。国が国有林事業を始めた後もこの地に植林をしなかったのは、おそらくここが神様の住む山だったからではなかろうか。ところでこの山は、中腹から麓にかけていくつもの尾根を張り出している。その尾根に、かつて飯盛城、鷹峯城、丸山城、鞍掛城といった多くの城があったというから驚きである。各城はそれぞれに蔵屋敷や堀切を備えており、水堀でお互いをつなぎ、城下町全体を囲むようにして総構えとなっていたそうだ(山中の看板にて学ぶ)。少し離れた所には妙見宮があるので(これは現存)、その門前町の賑わいに花を添えていたのではないかと思われる。しかしその後は、名和氏(当時この地域を支配)と相良氏(球磨地域を支配)の争いに巻き込まれ、一帯はすっかり荒廃したもようだ。遠い南北朝の頃の話で、豊かな緑が広がる現代の様子からは想像もつかないことだった。山頂はきれいな小台地で、八代市街地と天文台のある八竜山がよく見えた。
さて春光寺に話題を戻そう。創建は天正11年(西暦1583年)という記録があるから戦国時代末期のことである。初代松井康之が亡父追善のため丹後の国に「宗雲寺」を建立したのに始まる。それが豊後、豊前、肥後と移され、松井直之の代(西暦1677年)にこの地に移された。「江東山春光寺」と改称して現在に至るという(境内の説明板よる)。この間、豊臣秀吉が九州攻めに際して古麓城(当時この一帯の呼称)に入城し、島津氏を追い出して4日間ほど滞在した。その後江戸期に入り、加藤氏の後を継いだ細川氏が肥後の国を治めるようになり、君主忠興が八代の地に入った。しかしその後は肥後藩を佐々成政が、次いで小西行長が八代地方を治めることになって、この地の支配者も次々に入れ変わった。松井氏が八代城主となったのはその後で、以後10代、220年間続いたそうである。明治に入ると「西南の役」が起こり県内各地が戦乱にまみれたが、この春光寺一帯でも薩軍と官軍が激戦をくり広げたという歴史が残っている。「現在の本堂は明治時代の再建である。(中略)大書院には『お成りの間』、『お次の間』があり、座敷飾り、極彩色の板戸の絵、欄間彫刻など建築意匠も豪華である。裏の高台には松井家歴代の墓所である古廟・新廟がある。」(同)
この文章を書くにあたって、実は先日、数年ぶりにこのお寺を訪問した。師走の境内は静寂に包まれていた。句碑が3基、いや4基。もみじの葉はきれいに掃き寄せられて、堆高い山を作っていた。ちょうど御住職がお勤めから帰って来られたが、怪しげな侵入者を一瞥されることさえなかった。見学者など珍しいことでもないのだろう。背後の森にヒヨドリの高鳴きが谺して、冬のしじまが一層深まった。郷土の詩人、上田幸法さんの詩碑も発見。その詩を紹介して終わります。
行く鳥がいる/帰る鳥がいる/みんな私の肩を/叩いていく
~オウシャン・セイリング~
