熊本教育ネットワークユニオン

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 冬の断章

            冬の断章

 

〇真冬とも思えぬ明るい陽気が空に、野面に、川辺の草むらに広がっていた。私は透明な光の中を歩いていた、ただ一人足音もなく。それなのに私のすぐ脇を、鴨の群れがバタバタと飛び立った。カッカ、クワッカという大きな声を出しながら。それは怒っているようでもあり、また威されて喜んでいるようにも聞こえた。しかしその飛ぶ様はお世辞にもスマートとは言いがたい。丸々と太った胴体を運ぶには、翼がいかにも貧弱なのだ。群れの旋回を目で追いながら、人間さまがなぜ鴨を狩りの獲物としてきたか、分かるような気がした。気の毒な話だが。

 

〇なおも小川の辺(ほとり)を歩き続ける。すると静かであった水の面が俄かに活気づいて、新たに十羽ニ十羽が水を蹴り、空に向かって飛び出した。やはりけたたましい大声をあげながら。煽りを食ってコサギアオサギまで飛び立つ始末だ。こんなにも多くの鳥たちがすぐ近くで息を潜めていたことに驚く。丈の高い草に隠れて私には全く見えていなかったのだが、鳥たちは音や振動で人の姿をはっきり認めていたのである。ふと思う。彼らはシベリアかどこか遠いところから渡ってきて、静かに羽を休めていたのかもしれないと。そうであれば、この遠来の客人に対して私は申し訳ないことをしてしまったことになる。

 

〇ボオドレールは言った。「酔え。常に酔っていなければならない。それこそは一切、それこそ唯一の問題である。怖るべき時間の重荷を感じまいとならば、絶えず汝を酔わしめてあれ。さらば何によってか。酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むがままに。ただに、汝を酔わしめよ」(『巴里の憂鬱』三好達治訳)。なるほど、猫とワインを溺愛した詩人らしい言葉ではある。凡俗なる一市民、偏狭なる文学学徒に過ぎない自分でも同調できるような気がする(ただし「徳」には縁遠い存在であるが)。彼の周りには何人もの女性たちがいたことも知られている。詩集『惡の華』には少なくとも3人の女性が登場する。社交界の花形や女優、黒人白人の混血女性と多様である。彼女たちとの恋や心の交歓を、詩人は赤裸々に詩の中に残した。理屈よりも感覚、感性を、美を、最高のものと捉える、そしてそれに浸りきる――そんな耽美派の真骨頂が冒頭の言葉となっているのではないだろうか。

 

〇「時間の重荷」は避けがたい。どんなに抗っても時の流れは人の肉体と感覚を蝕む。己にとっても他人事ではない。理性や悟性は何とか現状を保とうと踏ん張ってはみる。だが一方で、知性、感性その他が徐々に衰弱してゆく。これはどうにも止めることができない。やがてそれらは全部、完全に、わが身から剥落してしまうだろう。夕陽が歌う。雲が踊る。山々が歩く。そのように見えたことが、人生の一時期にはあったかもしれない。だが時が過ぎれば、夕陽が沈む、雲が流れる、遠くで山々が連なる。ただそれだけのことである。酒を忘れ詩を忘れると、現実だけがのさばってくる。

 

〇夕陽が沈む。人が拵えた時間の区切りによるとやがて一年が終わる。新しい年もまた、政治家や官僚たちは国民をいじめるのだろうか。住民を分断するのだろうか。そして世界では、相変わらず戦争が続くのだろうか。せめて気づいてほしい、憎しみ合うことの醜さに、殺し合うことの愚かさに。日本の、そして世界の指導者たちが正しい選択をしますようにと、夕陽に向かって祈りたい。狂気に憑りつかれた者たちが理性を取り戻すことができますように、また地球が美しい星であり続けますようにと。もはや歌うことのない夕陽に向かって、しかしあらゆる命と叡知の源である太陽に向かって。

夕焼け

                          (1月16日・木)

                      ~オウシャン・セイリング~