熊本教育ネットワークユニオン

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ノスタルジア(その2)

ノスタルジア(その2)

          (1)
 熊本市から国道3号線を南下して宇土市に入る。松原交差点を直進して松山町というところまで来ると、左側にこんもりした山が見えてくる。ここから更に南へ、およそ2キロの山塊がこの文章の舞台である。海抜は最高地点でもわずか100メートルに過ぎず、北の「五色山」と南の「オンノイワ(鬼の岩屋)」は60、70メートルしかない。客観的に見れば山というより丘陵地である。そんなどこにでもありそうな里山が脚光を浴びることが一度だけあった。自分が高校生の頃だった。もう駆け回ることもやめていたので、そこにあるだけで何の価値もないと思っていた裏山の、その一角に古代の墳墓が発見されたのだ。まったく驚くべきニュースだった。

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 正確に言えば、これは弥生から古墳時代前方後円墳であった。およそ2年後、熊本大学の教授を中心に何人かの学者たちが現場を何度か訪れては慎重に発掘することとなった。マスコミもわんさと押しかけたらしい。中から出てきたのは女性の人骨と鏡や装身具、鉄の刀剣などであった。石の棺は鮮やかな朱色に塗られていた。彼らもまたこの発見に驚いたそうだ。確かに、学者にとっては貴重な発見だったかも知れない。1600年以上もの間荒らされることなく、何一つ盗掘されることもなかったのだから。一方で、素人の自分には何か割り切れない気分が残った。この女性がどんな人だったかは知らない。が、長年の眠りを妨げられたことは間違いないことだ。ガーネット(石榴石)のような明るい部屋の中で、彼女は平和に眠り続けていたに違いない。学問のためとは言え、後世の人間がその寝室にずかずかと入り込んでいいものだろうか、と。
 その後、我われが子どもの頃飛び乗ったり跨がったりして遊んでいた、あの通称「オンノイワ」も古墳(円墳)の一つであるとして土の山が築かれ、入口は固い扉で閉ざされてしまった。それは大きな石を縦と横に組み立てたもので、ストーンヘンジのミニチュアのような姿をしていた。今その姿を見ることができないのは寂しい。あの石たちは今、暗い空間でどうなっているだろうと気遣わずにはおれない。長く野ざらしにされていた過去を振り返って、やっと安堵の気持ちになれたであろうか。それとも、代々の子どもたちと遊んだことが忘れられず、石の方でも寂しい思いをしているだろうか。

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 自分は古代史や考古学には無頓着であるが、学者の目には一体はきわめて魅力的な地域なのかもしれない。この山域のみならず、周辺にも丘陵地帯はたくさんある。「雁回山南麓古墳群」として分類された大小の古墳が、熊本平野の南端付近にいくつも点在していることを最近知った。(次回報告予定。)
 一方で、現代人はこの山域を「開発」しつつある。これもその低さの故であろうか。宇土市は山中にゴミ処理場を作ってしまった。「高ん城」という中世の山城の遺跡が残る、そのすぐ脇である。ゴミを満載したトラックが毎日何回も舗装道路を往復していることだろう。また宇城市(旧不知火町、松橋町)はアスレチック広場や広い運動公園を建設した。休日には親子連れをはじめ子ども会行事やスポーツ行事などで、近在の人ばかりでなく遠方の訪問客にも利用されている盛況ぶりだ。そんな今の様子を思えば、「オンノイワ」も土の中に隠されたことが正解だったかな、とも思う。 (続く)  

(著者注)正式名称は次の通りです。(研究または探索してくださる方のために)
 ○人骨が発掘された遺跡=「向野田古墳」。竪穴式石室。出土品は国の重要文   化財に指定される。
 ○通称「オンノイワ(鬼の岩屋)」=「宇賀岳古墳」。横穴式石室。県の史跡に  指定される。
 ○ごく最近、佐賀県吉野ヶ里遺跡でも新たな石室並びに赤色顔料が発見された  というニュースがありました。本稿を書いた直後のことで、その偶然性と古墳   の類似性に少々驚いていることを付け加えておきます。
                       (オウシャン・セイリング)