熊本教育ネットワークユニオン

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ノスタルジア(その3)

 ノスタルジア(その3)

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 この女性とは一体誰だったのか、あるいはどんな身分の人だったのか。「弥生から古墳時代」「年齢は40歳前後」「彩色石棺」「多数の副葬品」……。これらの言葉から、当時の自分は大胆な想像をしてしまった。ひょっとしたら、この人は卑弥呼だったのではないか、そして邪馬台国はこの九州の中心部にあったのではないか、などと。まさかとは思うが、いやそうではないと誰が断言できようか。古代世界はとかく神秘のヴェールに包まれているのだ。余談だが、エジプトのあの女王だって今なおその墓が見つかっていないというし、小野小町の生誕地は肥後のわが町だという自治体まであるくらいだから、今思い直しても荒唐無稽な空想でもなかったかな、と思う。
 しかし学者や研究者の中で、そんなことを言う人は誰一人いなかった。やはり、非科学的な妄想の類いだったと言うべきだろう。学問にはもっと冷静、冷徹な目が必要だよ、と言われている気がした。実はその後、卑弥呼とこの人では生きた時代が100年ほど違っていることもわかった。今では「この地域を治めていた有力者、あるいは豪族の妻または娘」だったという線で落ち着いているようだ。つまり、この辺りでも女王が支配する国(言うなれば邪馬台国の小型版)が存在した可能性がある。それはそれでまた面白いではないか。最近になり、近在にはいくつも古墳があることを知るようになった。雁回山南麓や宇土半島基部だけで大小10個以上もの墳墓が発見されているし、南の八代平野にも、あるいは県北の菊池川流域にも発見、整備されている古墳は数多い。むしろ、全国至るところ古墳だらけと言っても過言ではないように思われる。してみると、わが裏山で発見された墳墓が邪馬台国につながる可能性など、ほとんどゼロに等しい。

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 数年前、思い立って現地を訪ねてみた。『向野田古墳』の標識に従い、狭い道をたどっていくと小高い丘となる。住宅街がすぐ近くまで迫っているが、繁茂する樹木に囲まれているので静かなたたずまいであった。斜面を登って後円部に着く(前方部は削られて形が崩れている)。中央部分に窪みがあった。ここが発掘された場所だと一目瞭然だ。まわり一面落ち葉に覆われて、何だか寂しさが漂っていた。
 しばらく夢想を試みる。1600年という長い時間がここで密かに流れたことに思いを馳せてみる。それにしても、この窪みが気になった。いかにも「堀り上げました」と言わんばかりではないか。もう少し丁寧に土を戻すことはできなかったのか。晩秋の午後であった。折から冷たい風が吹いてきて、気持ちまですっかり冷え込んでしまった。寂寥感とともに虚無感さえ抱いて丘を降りた。
 続いて宇土市立図書館を訪ねた。石棺に納められていた副葬品を、この目で確かめてみようと思ったのである。しかしそこではまず、弥生、古墳時代より遙かに前の、貝塚からの出土品が目を引いた。

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 薄いガラス一枚を隔てて、箱の中には縄文の空気が漂っていた。5~6000年もの間、ひたすら沈黙して土の中で過ごしてきた土器や石器の類い。揺り起こされ、掘り起こされ、繋ぎ合わされて、痛々しく元の形に戻されて、そしてそれを上から見下ろしている私は、どんな顔をして挨拶をすればよいのか。そこにあるのは単なる無機質な物体か、それとも野生と共に生きた縄文人の血肉か。
 人が捉えきれぬ何物かが、この壮大な時間の中にはある。いつの時代にも人は、歓喜や悲嘆、希望や欲望、悔恨といった情念とともに生きてきたに違いない。それらすべてを飲み込んで、なお素知らぬ顔をして、目の前に歴史の遺物が鎮座する。この日、おぼろに私に見えたもの。それは、立ち昇る煙や獣を追う縄文人たちの姿ではなく、脆すぎる者のいのちと時間を越えた永劫のものの存在であった。
(続く)
                       (オウシャン・セイリング)