熊本教育ネットワークユニオン

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ノスタルジア(その1)

ノスタルジア(その1)

          (1)
 「おーい、ミゼットが来たぞ。」と仲間の一人が叫ぶ。すると子どもたちはチャンバラをやめて一斉に道路に飛び出した。その車が目の前を通り過ぎるのを待って、大きい方の子どもらが追いかけてゆく。そして荷台に飛び乗って、200メートルほどただ乗りを楽しんだら飛び降りて、笑顔で戻ってくるのである。
 昭和30年代の初めのことだった。ミゼットというのはごく初期の車の一つで、車輪が3つしかなかった。ハンドルも現代の車のようなスマートな円形ではなく、自転車やバイクと同じ横長のものだった。子どもが飛び乗ったり降りたりできるのだから、スピードもそこそこだったということだろう。荷台の後ろには足かけも付いていたように思う。運転手の顔は思い出せないが、子どもたちを叱るわけでもなく、むしろ喜ばせてくれたのだからきっと大らかな人だったのだろう。

          (2)
 当時の子どもたちにとって、空き地はもちろん道路も山も遊び場だった。山、といってもここは標高の高い山ではない。集落の背後に居座る、いわば里山である。そこは子どもにとって、特に男の子にとって最高の遊び場だった。隠れ家を作ったり、木の枝に縄をかけてブランコを拵えたり、鋸や鎌、鉈などを持って薮山に分け入り、木刀を作ったりした記憶は今でも褪めていない。グミやアケビ、山芋を採る楽しみもあった。そこはまた生活の場所でもあった。戦争が終わって間もない頃のことで、当時はどの家庭も山野にあるものを熱源としていた。したがって枯れ枝を集めたり薪割りのための木を切って運ぶことが子どもの仕事でもあった。冬になると「神さん花」(シキミ)や「墓花」(クロキ)を取りに山へ入ることもあった。
 その後、時代は急速に変わってゆく。やがて、生計を立てる目的で山に入ることはなくなってきたが、正月用の飾り物であるウラジロユズリハは、自分にとっては「買う」ものではなく今でも「採ってくる」ものである。春は山菜、秋にはムカゴの恵みを与えてくれるのも里山である。

          (3)
 小学校の5年生か6年生の頃だった。当時の先生たちが「五色山」(※注)に遠足を計画した。五色山というのはこの山地の一番北にあって、砂岩層が剥き出しになった中に松の木が点在する、風光明媚な場所である。隣町(宇土市)に属するが、そこを遠足の場所に指定したのは先生たちがその評判を聞き及んでのことだったのだろう。「往きは麓の道を曲がりくねって歩いて行きますが、帰りは山の上を通ります。近道だから。」という説明があった。ところが先生たちは山道など不案内だ。「誰か知っている人?」と言われ、すぐさま自分が手を上げた。当日は長い行列の先頭に自分がいたことは言うまでもない。いなか育ちという理由で周りから揶揄されることもあったが、この日ばかりは自分も鼻高々だった。
 もう一つ忘れられない出来事がある。それは、この裏山全体がかつて火事に見舞われたことである。出火したのは「オンノイワ(鬼の岩屋)」で子どもの火遊びが原因だと聞いた。今は「岡岳公園」として整備されているところである。火はどんどん広がって、尾根から谷を焼き尽くした。1キロほど離れているわが家の裏手まで迫ってきて、生木、生竹が裂けるのであろうか、バリバリという激しい音が麓まで響いてきた。一時は家財道具一切を運び出すようなパニックにも陥って、山火事の凄まじさと恐ろしさを教えられる事件であった。その思い出は今でも強烈である。しかしその後の黒々とした山の様子はどういうわけか、自分の脳裏から消えかけている。再生が早かったからだろうか。
 数年後、この裏山で驚くべき事態が展開することとなる。(続く)
            (オウシャン・セイリング=※新しいペンネームです)
(※著者注)
 1.「五色山」。5月18日、熊日新聞「ローカルワイド県南」にて紹介される。
 2.ペンネームの変更について。本欄投稿者に「ネットワークユニオンS」が   二人いますので、本日より新しい名前で投稿いたします。よろしく。