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「伴侶の死」を読んだ

「伴侶の死」を読んだ

 

 「伴侶の死」(平岩弓枝/編)は、インターネットで市立図書館から勘違いして借りてもらった本である。近頃、平岩著の「御宿かわせみ」と「新・御宿かわせみ」の時代小説シリーズなどを読んでいるが、文庫本の一番後ろの作品リストにこの作品名が載っていた。

 

 このシリーズの中の主要人物のことだと思っていたが、読んだら違っていた。月刊『文藝春秋』に寄せられた読者の手記から、平岩さんが選んだ四十篇であった。読むのを後回しにしていたが、短編集でもあり読み出したら早かった。巻末にあった歌人斎藤茂吉の長男で父と同じ精神科医で随筆家の齋藤茂太さんとの対談も興味深く読んだ。

 

 「伴侶」という言葉は自分から使ったことは無い。「配偶者」は役所言葉みたいだ。「パートナー」は聞くようになったが、私にはしっくり来ない。「連れ合い」が良いのだろうが、そんなに使ってはいない。なんとなく恥ずかしいような、そう表現するのに自信が無いのかもしれない。

 

 私は家族以外の人と話すときには妻のことを「うちんと」とか「かみさん」と言っているように思う。元々人付き合いは得意な方ではない。親に言われて見合いはそれなりにした。お互い決め手は何かハッキリしないまま結婚したように思う。向こうの勤務地が県外で実家も離れていたので、会った回数も多くなかった。相手がどんな人物なのかもよく分からなかったように思う。これでは妻の方がもっと不安だっただろう。言葉は悪いが、ギャンブル(賭け)みたいなものだったと思う。

 

 勤めなかったので、人吉・小国・宇土と一緒に勤務地に引っ越して学校近くに住んだ。弁当もずっと作ってくれた。子どものことはほとんど頼りっきりだったので、「子どもの小さい頃、全然世話を焼かなかったね。」と言われることがある。もしも教員の方と共稼ぎをしていたら、物ぐさな私に呆れて愛想を尽かされたように思う。

 

 非常勤で同勤した同教科の男の先生たちは、忙しい中でも自分の子どものことを考え動かれていたように思えた。女性実習教師の方と一緒に感心していた。それらの方々は教員どうしの共稼だが、私からするとそれぞれに奥さんのこともとても大切にして動かれているように思えるのだが、「まだまだよ」と言わるという方もおられた。私がつい妻のことを愚痴ってしまうと、「仲の良かですね」とか「お互い『恐妻組合』ですね」などと言われていた。

 

 妙な精神構造の夫婦なのだろうか、感謝はしていても褒めることが苦手である。たまに相手を持ち上げたら、二人とも「どぎゃんかしたと(どうかしたの)ね」とか「気色の悪かね」とかが互いに出てしまう。いろいろ行き違いもあったりもしたが、それでも今月で丁度40年になった。

 

 テレビの天気予報でも見たことのある気象エッセイストの倉嶋厚さんは温かく穏やかな語り口だったように思う。「孤老の身」という手記が掲載されていた。子宝にも恵まれず妻の死を切っ掛けに鬱病を発症したそうだ。「自殺しようとしてマンションの屋上の縁で飛び上がったが、体はただ真上に飛び上がっただけだった。」という記述が真に迫っていた。そしてすべての仕事も業務も放棄して精神病院に入院された。三回忌を済ませたことから、ようやく「あきらめ」がついて快復していったそうだ。その他の手記にもそれぞれに悲しみや喪失感の中から再び立ち上がっている姿が出てくる。

 

 父が先妻と死別していたことを知ったのは私が二十歳くらいだったと思う。父と同じ学校に勤務していた母の叔父の紹介で見合いをした。父が革靴を盗られて下駄で見合いに来たとか、叔父の家(祖母の実家)の貸間から結婚生活が始まったことなどは母から聞いていた。母の没後、年の離れた従姉が母と初めて会ったとき、先妻とは違い活発で元気が良くてビックリしたと聞いた。そんな母が、父が亡くなったときはかなり落ち込んだ。父の生前は時々ブツブツと文句を言うのを聞くこともあったが、没後は父は良い人だったとしか言わなくなった。

 

 母の没後、短歌などを詠んだ句帳が何冊も残っていたのでざっと読んでみた。父や姉のことを詠んだ句はかなりあったが、私のことは1句も無かった。寂しいので気を紛らわせるためとか言って、家の一部のリフォームを頼んだり、ギターを習ったり、そのうちに立ち直っていった。

 

 対談されていた斉藤さんはかなり前に、そして平岩さんは今年亡くなっている。斉藤さんは「妻に依存して生きているので自分が先に逝く、その方が幸せだ。」と言われる。

 

 平岩さんの夫も同様に家事は一切ダメだそうだ。平岩さんの夫は絶対自分の方が残ると言われる。平岩さんは著者紹介にもあるが、代々木八幡神社の一人娘。婿養子になり宮司になった夫は自分はストレスがないから長生きすると。米の研ぎ方くらいはと言ったら「おれは娘が二人いるから心配ない。」「娘たちには手をかけたので自分の老後は見てくれる。」と言われたそうだ。実際に夫が残られたようだ。

 

 私も特に食生活は自立できていない。非常勤講師になってから包丁を持つようにはなったというか、授業が無い日などに持たされたというのが正確である。即席ラーメンなどの袋麺は10代の頃から食べていた。米を研いで電気釜でご飯は炊ける。インスタントやレトルトの食品ならどうにでもなるだろうが、料理は全く自信が無い。包丁も恐る恐るしか使えないが、昼ご飯でチャーハンぐらいは一人でも作るようにはなった。言われてから夕食の手伝いもするようにはなったが、自分だけで二人分を最初から作ったことはない。

 

 私の方が年上なので自分が先に逝くつもりだが、どちらが先か分からないと言い返される。仮に私が残ったり、介護する側になったらと思うとても不安である。そのときになってみないと自分がどうなっているのか分からない。

 

 「70歳が老化の分かれ道」(和田秀樹/著)という本を読むように妻が借りてきた。70歳代をどう生活するかで、本格的な老いに直面する80歳からが違ってくるという。いろいろな統計的・科学的な根拠や具体例などが列挙してあった。

 

 その中に「運転免許は返納してはいけない」「実は高齢ドライバーは危なくない」とうものがあった。車の運転をやめると運動機能や脳機能も衰えて、要介護リスクが2倍も変わるそうだ。統計的には高齢者が事故を起こす確率は高くはないそうだ。高齢者で事故件数が高いのは85才以上だが、他の年齢層とそうは変わらず、最も高いのは若者層だそうだ。認知症でブレーキとアクセルの区別がつかなくて踏み間違えることはほぼなく、ほとんどが薬などによる意識障害ではないかと言われる。

 

 運転からの引退は老化を加速させるとは言っても、高齢になると動体視力や反射神経などは衰える。高齢者のおぼつかないような運転を見かけることもある。私自身も以前よりいろいろな面で鈍くなっているので、特に運転には自信を持たないで慎重にしていきたい。そして、いずれはやめなければならないと思っている。

 

 私は若い頃から、坂道や階段は上りより下りの方が不得手だった。近年その傾向が強くなったように思う。年を取ると、下るときに使う筋肉の方が先に弱るということなので階段をせいぜい使うことにしよう。

 

 伴侶や子どもや親族そして知人などが理不尽に命を奪われる戦争。自衛権(right of self-defense)や自衛のためだと言って、無慈悲に相手国の人命を奪っても良いとしているのだろうか。ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルハマスの紛争というか戦争は、傍観者でしかない私から見ても腹立たしい。複雑な歴史はあるだろう。当事者でないとその気持ちは分からないと言われるだろう。

 

 命令する人たちは直接手を下していないので人の死に対しての感覚が麻痺しているのだろうか。直接市民や兵士の姿が見えない爆撃やロケット弾発射をする兵士たちに躊躇いは無いのだろうか。まして戦闘に関係ない市民を直接殺害・負傷させる兵士たちは良心の呵責に苛まれることはないのだろうか。それでも自分たちにだけ正義があると信じ相手の痛みを思おうとはしないのだろうか。自分の側の人たちだけにしか慈悲の心や人間愛は持てないのだろうか。虚しい戦争が早く終わって欲しい。

 

(熊本教育ネットワークユニオン true myself)