熊本教育ネットワークユニオン

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「趣味・特技 特になし・・・・」

   趣味や特技を聞かれたり、記入欄があったりすると困ってしまう。異動希望調書や臨採・非常勤の申込書にも確か欄があったと思うが、ずっと「特になし」としている。
 
 若い頃は、特技には高校・大学で部活動をしていた弓道と書いていた。教員になって弓を引いたのはずいぶん前に数えるほどで昇段審査も受けていない。経験者が少ないので、弓道部がある高校では顧問を30年以上することになった。そして、たまたま2校で弓道場建て替えにも立ち会った。そんなこんなで、手にしてから50年近く経つ竹弓二張りと矢筒に入った竹矢それに右手につける弽(ゆがけ)などが、押し入れの奥で朽ちつつある。(今、高段者以外はグラス・カーボンファイバーの弓や軽合金シャフトの矢がほとんど)
 
  高校の弓道部は私が生まれた頃に、戦後の武道禁止令の解除後に今は亡きM先輩により創部されたと聞いている。もともと運動が苦手で、中学校では文化部に入っていた。当時県下の中学校には弓道部はなく、全員初心者で出発点が同じであることもあって入部したように思う。先輩・後輩の関係は今より厳しかったが、練習後には道場でトランプなどで打ち解けてもいた。夏には1年上のS先輩の家がある清和村(現山都町)で、男だけで合宿があった。当時の道路は狭く曲がりくねってガードレールがほとんどなかった。そこを路線バスはスイスイ走り、かなりスリルがあった。皆で運転手の技量に感心したことを覚えている。清涼な空気の中で弓も引き締まり、勢いのある矢飛びと澄んだ弦音の心地良さが印象に残っている。時々、OB会や超OB会が開かれていたが、このコロナ禍でずいぶん開かれていない。
 
  初めて親元を離れた福岡での大学生活でもそのまま入部した。郡部(今は市になっている)にある統合されて間もないキャンパスで、弓道部も創部からあまり経っていなかった。その当時、高校では試合中の拍手や発声のよる応援は禁止だったが、大学では観客はもちろん行射中の選手も引いていないときは声を出して他選手を応援していた。叫声の中での試合だった。大学の合宿のうち2回は、国鉄の急行「さんべ」に乗って山口の萩まで移動した。「スト権スト」が1週間以上あり、鹿児島本線が止まりレール上面がさびていたことを思い出す。大学の側を茶色い線がすうっと伸びていた。合宿では松陰神社の集会所みたいなところで、男女で区域を分けて雑魚寝だった。高校でも大学でも百射会があった日はとにかくくたびれた。すっかり縁遠くなって、長崎にいる共に1年後輩の夫婦と年賀状をやりとりするくらいになってしまった。
 
  私は弓道と長年自分なりに付き合ってはきたが、打ち込んだとかのめり込んだとは思っていない。しかし、全く離れてしまうと、時に懐かしさと未練が入り混じったような気持ちになることがある。書いてるうちに、記憶が断片的によみがえり、まとまりのない思い出話になってしまった。
 
(熊本教育ネットワークユニオン true myself)