侏儒の呟き(8)
○「共に学問の奥義を究めながら、Aは事実に蓋をする者、Bは公に危険を知らしめる者。斑目春樹と小出弘章。」このような文章をおよそ10年前に書いた記憶がある。福島原発が壊滅状態となり、今後の原子力政策をどうすべきか、日本国中に熱い空気が溢れていた頃であった。自分は小出の本を2、3冊読んで俄知識を蓄えた。それまでの国の原子力政策がいかに汚れ、嘘まみれであったかを教えられた。政権の中枢にまで這入りこんで自由自在に政策を操ってきた、その急先鋒の一人が斑目であった。
先日、その斑目氏が亡くなった。見境もなく原発再稼働に前のめりになっている今の岸田政権の動きに、彼は拍手を送っていたのであろうか。一方、小出氏に関しては、マスコミに出る回数が極端に少なくなった。反原発の強い信念と舌鋒鋭い論調に、政治の側がブレーキをかけている可能性が十分にある。この件に限らず、一連の原子力政策に関してはマスコミの責任がとても大きい。政権におもねるだけでは過去の間違いを繰り返す。しっかりしろと言いたい。
○今日も野道を歩く。毎日欠かさず散策ができるのは嬉しいことだ。それなりの健康と体力が保持できていることに感謝しなければなるまい。感謝する、誰に?――両親に。妻に、子に。そして今のいのちに繋いでくれた代々のご先祖様に。
代々とは言っても…、実は何にも知らない。たとえば3代前のご先祖だって名前さえ知らない。その方たちはどんなご両親から生まれ、またその両親の先代はどんな生業をされていたのか、今に伝わるものは何もない。本当に何も知らない。分かるのは、遡れば遡るだけ多数のいのちが存在したということだけだ。ということは、無数の血が溶け合って今の己の体を作っているということだ。きわめて当たり前。単純な事実に過ぎない。しかしその単純さが、時に不可解な思いを呼び起こす。
パスカルの言葉を思い出す。長くなるが引用して味わってみたい。「私の一生の短い期間が、その前と後につづく永遠のうちに没し去り、私の占めている小さい空間、いやむしろ、私の見ているこの小さい空間が、私を知りもせずまた私の知りもしない無限の空間のうちに沈んでいるのを考えるとき、私は自分がここに居てかしこに居ないということに、恐れと驚きを感じる。というのも、何ゆえかしこに居ないでここに居るのか、何ゆえかの時に居ないで現にこの時に居るのか、全然その理由がないからである。誰の命令、誰の指図によって、この時、この所が私に当てがわれたのか?」そして彼の思考は次の有名な一節へと至る。「この無限の空間の永遠の沈黙は、私に恐怖をおこさせる。」[「パンセ」松波信三郎訳]
(ネットワークユニオン・S)