熊本教育ネットワークユニオン

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風の音を聞く

                       風の音を聞く

                    (1)
 今日も野道を歩く。川辺ではカラスノエンドウが実を結び始めた。ノアザミは薄紫の蕾を整えて明日にでも開花しそうな勢いである。片や、あれほど隆盛を誇ったシロツメクサにはやや衰えの兆しが見え始めたようだ。糸状の白い小花の生え際に、珊瑚のような淡い桃色が浮かんでくると、やがて茎全体が褐色となって今年の活動を終える。するとその横で、もう待ちきれないと言わんばかりに、混じりっ気のない黄色の花が顔を出しているではないか。この花は南北アメリカ大陸原産だそうだ。しかし日本に帰化して「待宵草」という優美な名をいただいた。これから夏の盛りまで、蛍光塗料のような無垢の花びらが道端を照らしてくれるだろう。(その時、遠くから雉の声。)

                    (2)
 クロード・ドビュッシーについて。彼の音楽は以前から好みであった。再び集中して、そのピアノ作品を聞く。彼もまた希有な作曲家であったと思う。殊に情景描写に優れている。のみならず、その鍵盤が紡ぎ出すリズムやハーモニーにはベートーヴェンの後期ソナタに匹敵する深い精神性を、我々は感じ取ることが出来るのではないか。自分はピアノが弾けるわけではない。音楽の研究家でもない。クラシック音楽の、単なる一愛好家に過ぎない。しかしながら、いやだからこそ、自由な言葉で遊ぶ楽しさを満喫できるのだと思う。
 「音と香は夕暮れの大気に漂う」(前奏曲集第一集)を再度聴いてみよう。待宵草が反り身になって風の音を聞いている景色が見えるのは、自分の錯覚だろうか。

                    (3)
 再び風の中へ。こうして小道を歩いているとそこにどんな言葉が転がっているのかと思う。空を仰げばどんな絵が隠れているのかと思う。寡黙な植物たちも、きっと何かを語りかけているに違いない。しかしそれらを捉え、自分のものとして何らかの形のあるものを作り上げるのは、容易なことではない。ましてこの、白濁した空気の中である。大陸から飛来した砂の微粒子が視界を遮って、そこにある筈のものが見えないのは、著しく精神の安定を損なうものである。

                       (ネットワークユニオン・S)

                                                                                 (2022年4月27日・木)