熊本教育ネットワークユニオン

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夏の断章

夏の断章

 

〇太陽は今日も尖った光を惑星に向かって投げつけている。そこに住むすべての生命体に、何かを知らせようとしている。

 

〇一羽の蝉が無防備にも仰向けの姿で寝ころんでいた、炎熱の大地の上に。すでに一生を鳴き尽くして命を終えたかに見えるその亡骸を、せめて草の上に運んであげようと手に取ると、何と彼はわが手のひらを登り始めた。おそらく、残された最後の力を振り絞って。針金よりも細いその足が摑む力は、しかし思いのほか強かった。私は彼を近くの木の幹に移してあげた、葉陰の涼しい場所に。ガラス細工のようなその薄い翅を広げることは二度とないだろう、そして、再び落下することになるだろうという予感を抱きつつ。

 

〇福岡に住む知人が「チケットを取ったよ」というので、今年もペイペイドームの野球見物に出かけた。4年前、去年に続いて3回目である。今年の鷹は強い。この日も期待通りの快勝でスタンドは大いに湧いた。(実は、私はそれほどの鷹ファンではない。勝っても負けてもわが暮らしには何の変化もない。むしろ負けてくれた方が、熱狂がいくらか静まって心地よいと思われる。過去2回は負けたのに、今日は勝ってしまった。)勝利の後はお決まりのヒーローインタビューだ。観客はやんやの喝采。ところがこれで終わりではなかった。むしろ、「さあこれからが“鷹祭り”の始まりだ」と言わんばかり、大音量のアナウンスが過度に熱気を煽った。続いて「Dj Koo」が巨大画面に登場して10分以上も何かを囃し立てた、しかも早口で。そして最後は「Da Pump」の登場だ。グランドに敷かれたマットに5人が立つと、場内観衆はいよいよ熱い渦に巻き込まれる。いやはや、野球場がそのままライブのコンサート会場になるとは。(ちなみに私は、ロックやポップスの世界には馴染みがない。音楽といえば昔からクラシックスに親しんできたのだ。)レーザー光とスポットライトが右に左に、上に下にと交差する。その中で白装束の5人が歌う、踊る。踊って歌う。歌いながら空で足を蹴る。拳を突き上げてスタンドにアピールする。すると4万人の観客も拳を握ったりゴム風船をぐるぐる回したりして、彼らと一体化しようとする。いつの間にか私も、「キャーモン・ベイビ、アメリキャ!」を連呼しているのであった。

 

〇人は…。過去の行為を見つめ直し、反省するには勇気とエネルギ―が必要だ。多くの場合、人は強がりを言ったり誤魔化したりして過ちを正当化する。なぜなら、正義感というあやふやなものが心を動かすからだ。そうしなければ自分の価値を打ち消し、ひいては存在を否定することにもなりかねないと彼は懼れるのだ。

 国の場合も一緒ではないか。アメリカは長く、「原爆投下は正しかった」と国民に教えてきたそうだ。したがって彼らの過半数は今でもそのように信じている。きのこ雲の下で何十万もの一般市民が殺されたという事実を知っても、「もし原爆を使わなかったなら、もっと多くの日本人が犠牲になっていたはずだ。」という別の見方が罪悪感を打ち消すのである。

翻って、我われ日本人はどうか。旧日本軍がかつて、アジア諸国や太平洋の島々を侵略し、彼らの国土を踏み荒らしたこと、命を蹂躙したことに対する自覚と反省があるか。

 

ワイツゼッカー演説と、河野談話村山談話

 新聞や雑誌に「若い政治家はもっと戦争の実相を学んで」という意見や論評が載ることがある。被爆者や戦争経験者には、今の日本の政治家、特に若手政治家の思考や行動の方向性に対して危惧の念と大きな不安があるようだ。(以下、別の機会の論考とします)

                          ~オウシャン・セイリング~