台湾を知らなさ過ぎた
「汝ふたつの故国に殉ず~台湾で英雄となったある日本人の物語~」(門田隆将/著)を読んだ。主人公の湯徳章(日本名;坂井徳章)のことは全く知らなかった。それどころか、台湾のことを知らなさ過ぎたとつくづく思った。著者をテレビの討論番組で見たことがある。保守派のジャーナリストで作家のようである。女性学研究家の田嶋陽子さんと対立した言動をしていた。
日本の近現代史もよく知らないが、台湾のことで知っていることは本当に少ない。日清戦争後の日本統治時代に日本式教育を受けた多くの高齢者が日本語も話せると聞く。
共産党に敗れて台湾に逃れた国民党が支配したことも一応知ってはいる。総統が蒋介石、その後の蒋経国、李登輝などの名前は出てくるが、何をしたのかはほとんど知らない。戒厳令も記憶の中にはあるが、その中身は知らない。
日本統治時代に新高山とも呼ばれた富士山より高い山があることや、高砂族とも呼ばれた少数先住民がいることなども頭にある。
近年は民進党政権で、中国とは現状維持で距離を置こうとしていると報道されている。いろいろな経緯はあるのだろうが、共産党と敵対していた国民党が親中派とされるようだ。台湾議会の乱闘をテレビで見たことがある。国民1人当たりのGDPは日本を上回り、出生率は日本を下回るとも聞く。
台湾と言えば、今は半導体の受託生産で世界最大手TSMCの熊本工場が話題になっている。経済効果が強調されているが、地下水、渋滞、地価高騰などの問題がある。
いくつかの資料の記述から抜粋する。湯徳章は日本統治時代1907年に坂井徳蔵と台湾人の母・湯玉の間に台南で生まれた。当時はまだ日本人と台湾人の結婚について定めた法律が存在しなかった。
熊本県宇土出身の父・坂井徳蔵は新天地を求めて台湾へ渡り、警察官になる。徳章が8歳の時に西来庵事件で当時南庄派出所に配属されていた父親は暴徒に襲われ命を落としてしまう。
その後、母親に女手一つで育てられた湯徳章は貧困に苦しみながらも、優秀な成績で玉井公学校を卒業し、台南師範学校に進学。しかし、二年後に中退、玉井に戻り、製糖工場で働く。台南州乙種巡査の試験を受け合格、20歳で巡査教習生になる。巡査、巡査部長と経て、警部補に昇進。台湾籍ゆえ、それ以上の昇進は望めなかった。
1936年は叔父坂井又蔵の養子となり、坂井徳章と改名。そして警察を退職し、1940年東京の叔父を頼って日本に渡航し、中央大学の聴講生となる。苦学の末、超難関の高等文官試験司法科と行政科の両方に合格する。
1943年台湾に戻り、台南で弁護士事務所を開設する。戦後も家族と共に台湾に残り、本籍を台湾に戻して再び湯徳章を名乗る。
1945年国民党軍は台湾に入り、日本統治を終わらせたが、大陸出身の国民党員(外省人)は台湾人(本省人)を抑圧した。
1946年戦後初の省議会議員選挙で敗れたが、台南市人民自由保障委員会の主任委員に選出。二二八事件では「二二八事件処理委員会」のメンバーとして、混乱の収拾にあたるが、鎮圧に乗り出した国民党軍に身柄を拘束され、1947年3月13日銃殺刑に処された。
1998年に最期の場所となった広場が「湯徳章紀念公園」と改名され、脇に小さな胸像が設置されたそうだ。
二二八事件とは、台北で起こったヤミ煙草没収事件に端を発し、1947年2月28日から全島的に広まった反政府大衆暴動である。結果的に、援軍として中国から派遣された国民政府軍が台湾住民を殺害して事態は鎮圧された。犠牲者は1万8千から2万8千名にもなるという。
日本統治時代には台湾人差別があったが、戦後は国民党員が同じ漢民族の台湾人に北京語を強制し、差別した。1949年から1987年の38年間の「戒厳令」期間、政治的な活動や言論の自由そして人権が奪われた。
中国が武力で台湾を統一するという台湾有事が取り沙汰されている。歴史的にも経済的にもいろいろな面で台湾に無関心では済まない。
久しぶりに高校の弓道部OB会があった。高齢者割引バスカードを利用して早めに出発して、同勤した美術の先生の個展に寄ってから会場に向かった。前回はコロナ禍前だったから、何年ぶりだろうか。
顧問の先生、大先輩、近い先輩、同輩、そして幅広い年代の後輩など20名弱が集まった。弓道を続けた人、止めた人。私と同年代でも仕事をしている人。昔話に花が咲いた。それぞれに人生を歩んでいる。世界には、今も不条理な戦争に苦しめられ人生に絶望している人が大勢いることを意識していきたい。
(熊本教育ネットワークユニオン true myself)