自分を受けいれる
従兄弟が「医者から、『自分を受け入れること』と言われた」という。だが、これは具体的にどういうことなのか。なにか聞いたこともあり、わかってるようで、実はわかってない自分である。
子どものころ、ばあちゃんが家の脇の畑につくったトマトとキュウリをよく食べた。トマトは太陽であたためられていた。かじると皮が弾けて酸味まじりで甘かった。胡瓜も熟れて酸っぱかった。学校から帰ると、いねかりが済んだ田んぼで、友達とソフトボールしたり、丘に出かけてウベやあけびや、イタドリ、やまもも。とにかく腹をすかしていた。「これは食わるっとぞ、これは食われんばい」遊びなのか、食べ物探しなのかあいまいでもあった。ご飯は麦飯で粗食ではあったが、美味かった。最大の調味料は空腹らしい、という知人の言葉に納得する食であり、味はわけられることなど考えることもなかった。
赤くはあるが、すいも甘いもない赤いトマトを食べることも経験して、古希を過ぎた。料理や洗いものをするところであるシンクがあるのはもはや、わかる年である。あるとき、その「シンクがきれいでない。」と言われた。嫌なことを言うな、という思いと、ではきれいにするかという思いもあった。シンクを見てみると確かに色がまばらで光沢がある部分と、光沢ない部分が、まばらにある。それは、美しいとは言えないかもねと思った。その美しくないのはどういうことか。なぜなのか、調べてみた。スマホで。
この汚れ?は、水あかというやつで、水がミネラルを含みそのミネラルがシンクにこびりついたからであった。ミネラルウォーターと聞くように、ミネラルとは、なにか身体にいいものだろうと思っていたが、単に無機質の英単語というようだ。それにしても、水はシンクをきれいにするものと思ってたのに、それが汚すものでもあるとは。コビリついた水あかは拭いても取れにくい。どうしたらいいかを調べる。スマホがとても役にたつ。天女が羽衣で岩をひとなでする。それがたび重なると岩はなくなる。そんなとてつもない長い時間があると。それを思うと、シンクの壁をなでると汚れはきえるのはなんと短い時間であるかと安心する。それからあれやこれや調べ、そして、五味というのにたどりついた。甘い苦い酸い辛い塩からいの五。しかも、しおからいという漢字は見たこともなかった。そう言えば、漬物の辛さとカレーの辛さは違うようだ。ところが、うま味が入り、からいは一つ統一されている説も。このへんの微妙なことは、どうでもいいというか、わからないというか。私にはお菓子の甘さと、それと別のものしか、考えてなかった。甘いものと甘くないものという2つの味で判断していた。甘い(あまり食べなかったが)お菓子はもちろん、甘くない野菜なども、ほぼ食べることはできた。(ただ、味噌汁にはいってる玉ねぎはとろりとして、苦手だった)そして、山に登ってから食べる塩おにぎりのうまさは、格別であった。自分にとってはそれが極めつけの味である。
辛いに統一されて、その代わりに、新たにうま味が、登場しているのは、日本人が見つけただの、イノシン酸とかいうのだの、なにか印象操作してるのかなという思いも、うきあがる。 私の理解できないものの領域のようである。この理解できないというのが、やはり最後の難関らしく、さとりの境地は説明できないというらしい不可説。その不可説がかさなり、さらに転じる。不可説不可説転が最も大きい数詞であると知った。千が10の3乗であるが、不可説不可説転は10のなん乗かと言えば37214...と数字が38個続く乗である。華厳経というもののなかにその数詞はあるとのこと。ところが、世界にはその上にグーグルコンプレックスというのも存在していたようだ。とにかく知らないことが多すぎるとは思う。つまり無知である。なので知っていくことが楽しい。
無知であることをわかる(自覚する)。それが自分を受け入れるということかなあ。
(m)