熊本教育ネットワークユニオン

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倉庫から出てきた「沖縄に関する講演の記録」⑤ 

 

倉庫から出てきた「沖縄に関する講演の記録」⑤ 【琉歌 その2】

     25年前に、高教組菊鹿地区本部が主催する夏の地区教育研究集会で石川眞昭(安仁屋眞昭)さんを講師に迎え講演していただいた記録である。記録を残し石川様に印刷の許可を得る作業中に本当に「お蔵入り」してしまっていた。このブログを借り何回かに分け掲載したい。尚、テープをおこした文章であり、これ関する責任は編集者にある。

熊本高教組菊鹿地区本部の教育研究集会

   講演  九州芸術工科大学(当時)  石川眞昭(安仁屋眞昭)さん

       現在は宜野湾市におすまいです。

【琉歌 その2】

 そして、その時の国王というのが尚敬王という方ですが、今度は権力者に対して、戒めの言葉を言っています。「我が身ちる見ちる人の上や知ゆる 無理するなびけーい」と、意味は、「我が身をつねって他人の痛さがわかる。無理をしなさんな 情けが大事ですよ」と歌われた。

 4月17日に特措法がああいう形で成立しましたね。5月15日、契約を拒否している方々の土地が不法占拠に不法状態になるということで、衆議院の90%参議院の80%の議員さん方が賛成をして特措法を成立させました。それはアメリカが基地として沖縄の、東アジアの、安定のために10万人の兵力を駐留する必要がある、そして日本に4万人の兵力が必要であると今主張している。政府もそれに削減を求めないとしている。そう言う状況の中では、この基地闘争の中では、この法がある限りは法廷的な闘争は今までのようにはできない。そういう意味でこの法は沖縄の土地を半永久的に強制使用できるような法律であるわけです。

 沖縄の痛さを知らない。どうして基地が沖縄にこのように集中してあるかという事、復帰しても日本の米軍基地の75%(25年前:現在も70%を超える。25年も経過してもこの状況)が沖縄にございます。なぜそうなったか。実は戦争が終わり、昭和20年の6月23日が沖縄の終戦です。そして占領でそのまま沖縄の基地があったわけではありません。その当時は19世紀末に結ばれたいわゆるハーグ条約で戦争して占領したらある程度必要なところは基地にしていいんだという事はあるんですが、それに基づいて必要な分だけ基地にしていたそうです。なぜ今のようになったかというと、実は1952年(昭和27年)のサンフランシスコ平和講話条約が4月28日発効しました。その時点で日本が独立しました。それまでは本土も沖縄もアメリカに占領されていました。ところが、昭和27年4月28日以降日本は独立しました。我が沖縄は、あの吉田内閣の政策で、アメリカの方に統治をして下さいと、結局は切り離されたのです。その裏には天皇陛下のメッセージがあったとも言われていますが、とにかく法的にアメリカにまかせるという事になったために、その後はアメリカは自分らの都合のいい土地を農地だろうが人が住んでいようが基地に都合の良いところを時の弁務官が「この土地をここからここまで必要とするから」と言うことで、一編の府令を出せば、それが法律と同じ効力を持つことになったんです。それを出して、その一ケ月後は米軍が使って良いということなんです。そのようにして拡大に拡大を重ねて今日があるわけです。

(つづく)  次回は【琉歌 その3】です。

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