ガラケーからスマホへ
3G携帯電話から4Gスマートフォンに替えた。10年近く前まで携帯電話は持っていなかった。職場開拓の会社訪問のために短期間プリペイド式の携帯電話を通話のみ使用したくらいであった。そのうちに、職員の中で携帯電話を持たない人はごく少数になり、勝手に同志のように思っていた。
しかし、母の具合が思わしくなくなり姉と連絡を取り合うために、いわゆるガラケーを持つことにした。母が亡くなってからは、身につけている必要も感じず家に置いておくのがほとんどだったので「不携帯電話」とうそぶいていた。どちらというと妻の方がメールなどに使っていた。そんなに出歩くわけでもないので、夜は固定電話の方がかえって連絡がつきやすいくらいに思っていた。
定年後の臨採4年目、思いがけず阿蘇に行くこととなった。若い時ならいざ知らず、毎日往復100km、3時間以上の通勤には自信がなかった。そこで、私だけ住民票を移して職員住宅を借りることにした。連絡手段として妻もガラケーを持つこととなり、ようやく1人1台体制となった。妻の住民票は熊本のままにした。最初は一緒に職員住宅での生活体制を整えて、そのうちに維持・管理のために自宅中心にしていこうと考えだった。
ところが、すぐに熊本地震が起きた。停電で光回線の固定電話は使えず、県外にいる子どもや姉などと連絡を取る手段は2台のガラケーしかなかった。(以前の台風で停電の時、ダイヤル回線の電話は使えた。)余震が続き、離れていてはお互いの安否も気になる。結局、阿蘇の2年間は妻と2人で授業日は阿蘇の職員住宅、金曜の夕方に自宅に帰り、日曜の夜に職員住宅に戻る生活を続けた。57号線は不通で、曲がりくねったミルクロードを往復した。
雄大で荘厳な阿蘇五岳が眼前に広がり、夏は涼しく過ごしやすかった。冬の寒さは厳しかった。凍りついた車のガラスを毎朝融かした。積雪で学校まで何回か歩いた。火山灰が降り積もって異臭がなかなか消えないこともあった。臨採5年目で、非常勤講師を希望して今に至っている。
そうこうするうちに、3G携帯は2022年には廃止になると、携帯会社から連絡が来るようになった。周りは高齢者もどんどんスマートフォンになっていったが、家族以外に連絡を取ることはあまり無く、インターネットはPCで見た方が画面が広くて見やすいと思い、ずっと放っておいた。近年、度々封書で連絡が届くようになって、今年中には2人ともスマホに替えようということになった。夏休みになり妻と2人で直営ショップに行き、あまり下調べをしないで契約をしてしまい後悔していることもある。
(熊本教育ネットワークユニオン true myself)