今度は1000kmだけど
連休明けの平日、車で四国を旅した。今回の走行距離は3日間で1000kmを越えた。ただし、九州と四国の間は国道九四フェリーで往復したので、移動距離はもう少し長くなる。
今回は、無給油で燃料計も一目盛り残して走破できた。ハイブリッド車とは言え、これだけの航続距離は今の電気自動車BEVなどには無理である。それに、充電時間の短縮や充電設備の整備といった課題がある。欧米や中国などでエンジン車を販売禁止にするような動きがあるが、新興国などの需要もあり一気には広がらないように思う。
愛媛の松山には以前に道後温泉1泊で行ったことがあったので、他の3県を巡ることとした。熊本を6時前に出発、阿蘇を通って大分の佐賀関港9時発の便にどうにか間に合った。危なかった。最後の3台目くらいで船尾の方にようやく乗れた。1時間に1便だが、連休後でも利用が多いものである。70分ほどで、愛媛の三崎港に着いた。細長い佐多岬半島から瀬戸内の海岸沿いに一般道を進み、伊予ICから高速道路に乗り善通寺ICで降りた。
金刀比羅宮には午後2時くらいに着いた。通称「こんぴらさん」は生まれ育った近くにもあったので、名前だけで何だか親近感がある。石段を本殿まで上ったが、更に600段近くある奥社までは自信が無いので行かなかった。30年くらい前に美里町(当時中央町)から釈迦院への3333石段を上って下りてきたら膝がガクガクになったが、今は到底無理だろう。参道の石段の両側に、ずらりと土産屋であった。
国指定重要文化財の芝居小屋である金丸座は中には入らなかった。外観や入り口の雰囲気は同じ重要文化財の熊本山鹿の八千代座、福岡飯塚の嘉穂劇場、愛媛の内子座などと似ている気がした。
次に行った栗林公園(りつりんこうえん)には名前とは裏腹に栗は無く、枝振りの良い松が1000本以上。水前寺公園とほぼ同じ料金だが、とにかく広大で庭園面積は2倍以上はある。手入れされた回遊式の南庭と北庭を90分くらい散策したが、全部廻り切れてはいない。
高松城にも寄ったが、時間の余裕もないので中には入らず門と櫓だけ見て宿に向かった。途中で、思いがけず屋島という地名や案内看板が目に入った。すると、台形の山が左手に見えてきた。「屋島の合戦」という言葉が頭に浮かんだ。「与市の扇の的」という案内看板も見えた。そうか、平家物語で那須与一が波で揺れる扇の的を射落としたとされたあの戦いかなどと思いながら通過した。
江戸時代までは本当に島だったそうだが、今は陸続きになっている。随分昔、授業で溶岩台地の例として屋島を挙げたように思ったので調べたら、低地に流下した溶岩流が隆起し侵食され強固な溶岩が残ったものなので溶岩台地ではなくメサという地形だそうだ。1日目は、庵治温泉に泊まった。海辺に近いが、湯は塩っぱくなかった。
2日目は、徳島県鳴門の大塚国際美術館に行った。山の麓に出入り口があり、40m以上の長いエレベーターで上った先が地下3階だった。山をくりぬきB1~B3と地上1・2Fがある日本最大級の常時展示スペースを有する「陶板名画美術館」である。展示は1000点を超え、驚くほど広大であった。地下から順に古代・中世・ルネサンス・バロック・近代・現代の西洋の壁画や絵画などが特殊技術によって原画に忠実な色彩・大きさで陶板に再現されていた。2000年以上退色しないそうだ。1枚から何枚かを組み合わせたものまであり、モザイクの感触や表面のデコボコやザラつきまであった。
最初に、かまぼこ形のホールにシスティーナ礼拝堂の天井画や壁画が原寸大で再現してあった。陶板とは言え、ミケランジェロの「天地創造」や「最後の審判」に囲まれた空間は壮観であった。丁度、定期ガイドの時間だったので、40分くらい付いて回った。その後、再度鑑賞ルートを巡った。4km程あるそうで、ストロボ無しの写真撮影は自由だった。聖堂や礼拝堂などの内部がいくつも再現してあり、教科書や画像でしか見たことがないものが目白押しであった。
ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」・ダヴィンチ「最後の晩餐」の修復前と後そして「モナリザ」・フェルメール「真珠の耳飾りの少女」・ゴッホ「ひまわり」の7作・レンブラント・ルノアール・ムンク・シャガール・・・・などなど、何でもござれのような感じである。モネの「大睡蓮」やピカソの「ゲルニカ」などの大作まで原寸大で再現してあった。3時間ほど過ごしたが、作品数が多すぎて後からはもう腹一杯という感じになった。鑑賞と言うよりただ眺めるだけになってしまった。希少価値の本物の作品を鑑賞する方が有り難いと思うだろう。
次に、近くにある鳴門公園の渦の道という施設に行った。徳島と淡路島を結ぶ大鳴門橋の橋桁下部に設置された延長約450メートルの遊歩道である。丁度、引き潮の時間に当たり鳴門海峡の渦潮を見ることができた。上にある高速道路を大型車両が通るたびに、歩道や展望室が地震みたいに揺れた。床の透明板から下を見るのはゾッとするので、目をそらした。激しい潮流に逆らいながら何隻かの観光船が渦の側を行く。遊歩道から戻って少々小腹がすいたので、焼きちくわを食べた。
まだ時間は大丈夫だろうと思い、徳島市に行くことにした。大学生時代に、弓道の試合の遠征で来たことがあった。半世紀くらい前だから、当時の国鉄で移動し、瀬戸内海は宇高連絡船で渡った。試合の様子は覚えていないが、熊本市だったら金峰山みたいな感じで、眉山(びざん)が見えたことだけは頭に残っていた。眉山の麓のあわおどり会館を目指した。時間の余裕もなくなり駐車料金も高いので、中には入らなかった。徳島ICから高速道路に乗り一路高知ICに向かった。
高知市は路面電車が走っていた。旧式や外国製のような車両がゴトゴトと走る光景は何だか郷愁を覚える。市の中心に近い大きめの温泉ホテルに泊まった。宴会の客もいるようで、駐車場は一杯で駐車区画以外に駐めるように指示された。しかも有料でそれなりの料金だった。今まで泊まった宿はほとんど無料だった。海からは離れているはずだが、湯は塩っぱくて苦い感じがした。
3日目は先ず桂浜に向かった。途中で、牧野植物園の案内看板が見えた。植物学者牧野富太郎は朝ドラのモデルになっている。観光マップには近代史で聞いたことがある人たちの生誕地や記念館がなどがいくつもある。そして高知龍馬空港ともあった。
桂浜近くの高台にある坂本龍馬記念館に車を駐めて歩いた。龍馬像を見てから太平洋に面した波荒い桂浜に行った。潮流が速いため遊泳は禁止されており、砂浜の波打ち際には誰も近づいていなかった。
次に現存天守閣が国宝とされている高知城に行った。全国の城で唯一残る本丸御殿にいたら、私より10歳くらい上だろうか矍鑠(かくしゃく)としたボランティアガイドの方が説明してくださった。御殿はそんなに大きくはなく、古いせいもあるが質素な感じがした。天守閣の中は狭く、やはり階段は急だが松江城よりは楽だった。降りてきたら、再び先ほどのガイドの方と出会った。イメージが無いかもしれないが、高知は森林率は日本一で林業が盛んだという話もされた。
四国には現存天守閣が多い。現存12天守のうち、丸亀城(香川)、松山城(愛媛)、宇和島城(愛媛)、高知城(高知)の4基は四国地方にある。それぞれの歴史や明治の廃城令などの関係もあるだろうが、四国地方の戦時中の空襲被害が中国地方などに比べると少ないことが影響しているようだ。
高知を11時半頃出発し、高速道路を西に向かい一般道を通って三崎港に15時前に着いて、15時30分発のフェリーに乗った。それにしても、行きも帰りも積み残しが出そうなくらいトラックも乗用車も多かった。どうにか無事に自宅まで帰り着いた。今回も3日くらいだるかった。
観光地は平日にもかかわらず、どこも割と賑わっていた。これでもコロナ前より少ないのだろう。どこも駐車場は有料で均一料金が多かった。事前に調べていたので、2ヶ所くらいは無料のところに駐められた。今回はフェリー代もかかった上に全国旅行支援は切れていたので、割高に感じた。
非常勤講師を辞めて今の学校については書けないので、思い出話を交えたダラダラとした拙い旅日記しか書けなかった。今後の題材の当てが全く無い。
(熊本教育ネットワークユニオン true myself)