熊本教育ネットワークユニオン

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バスもお城も無料そして正月

バスもお城も無料そして正月

 

 12月下旬、熊本市発着の路線バスが1日限り、乗車料金が無料になった。市の広報に無料券があったので、熊本城に2人で行くことになった。コロナ禍の今、敢えて混雑の中に入っていくのには、ためらいがある。バス無料の日は、サクラマチクマモト開業の日にもあった。コロナ禍前の2019年9月、バスはすし詰め、店内は大混雑で自由に動けなかった。

 私は少々渋ったが、朝早く行って午前中に帰ってくれば、人は少ないからと押し切られた。7時46分のバスに乗った。乗客は7・8人くらいだった。

 久しぶりに乗ったが、便数も減り、路線変更も少し変更になっていた。次の停留所は大学病院前と思っていたら、表示で「大学病院構内」となり、アナウンスもあった。名称変更にでもなったのかと思っていたら、大学病院の敷地内に路線バスが入っていく。乗降客はいなかったので、一回りして、次が大学病院前だった。

 後で調べたら、2路線の左折して構内に入れる便のみだった。病院利用者の利便性や右折は交通渋滞になることなどを勘案してのことだと思われる。実際、帰りの便は以前と変わらず構内には入らなかった。

 熊本城は、地震後2回目である。8:30開場と思ったら、9:00からだったので、加藤神社に行った。眼前の宇土櫓は傷ついてはいるが、往時のまま現存する姿には風格がある。いつ見ても、その石垣は壮麗である。

 受付では、20人くらい並んだ。一番前には修学旅行の自主行動だろうか、学生服2人に先生らしき大人1人。清正役はいなかったが、武将隊のかけ声で開場となった。

 地震後一度、特別見学通路や空中回廊は通ったことがあるが、再建された天守閣内部に初めて入る。とにかく展示物多い。ビデオ説明を全部見たら、かなり時間がかかる。設備があるかは確認しなかったが、暖房は効いていなかったように思う。言葉の感じから中国人だろうか、カップルや家族連れもいる。

 階毎に時代を追って詳しい説明がしてある。多くの興味深い展示物がある。天守閣の構造模型や御上段(天守閣の最上階)の復元縮小模型、破風の実物大模型や鯱瓦などなど。白川が大きく蛇行していたのを400年前にまっすぐに改修して、川跡一帯に城下町が整備されたという。それが今の中心繁華街である。下通りのなだらかな曲線は川跡の名残だという話を聞いたことがある。

 最上階の展望フロアに登ったのはいつ以来だろうか。相変わらず見晴らしが良い。エレベーターも設置されたので、狭く感じた。

 小学生の頃、城内で行われた博覧会に行った記憶がある。どうやら、天守閣再建記念の熊本大博覧会のようだ。そこにあるのが当然という存在だが、県外の城に行くと熊本城のの壮大さを思い直すことになる。熊本城が地震前に完全復旧するには、30年くらいかかるそうだ。その姿を見ることは叶わないだろう。

 帰りのバスも乗客は少なく、私たちが降りたら、誰もいなかった。午後だったら、どうなったか分からないが、大した混雑も無い無料の城見物だった。

 

 正月、元日を自宅以外で迎えたことは無い。20年間くらいは、生まれ育った家から歩いて神社に初詣。家を移ってからも50年間くらい同じ神社に車などで来ている。

 今年も、先ずは拝殿で拝礼。あとは、ついつい生前の母に倣って同じことを続けている。ロウソクと太い線香を買って、ロウソクの火でつけた線香の煙を浴びた。境内に醤油屋を営んでいた母方の祖父が寄進した玉垣(1m位の石柱)があるので、名前を確認して触った。防火祈願のためだと思うが、境内の一画にある火の神さん(猿田彦大神)にも詣った。

 神社から、家の跡地まで5分ほど歩いた。細い道は同じだが、町並みはすっかり変わった。昔は、八百屋、肉屋、魚屋、米屋、駄菓子屋、それに呉服屋や洋品店もあった。肥後独楽の工房があって、木工用ろくろで削ったり彩色するのをながめていたものだ。

 家の道を挟んだ真ん前は豆腐屋、時々揚げたての厚揚げを食べた。隣はクリーニング屋と牛乳販売店近所で大概の物は揃う便利な所だったなと改めて思った。今は全て無くなり、高齢者には暮らしにくくなったように思う。

 地方では車無しでは生活しにくくなっている。高齢者の交通事故や免許返納が取り沙汰されている。自動運転技術が進歩したら、ますます車は手放せなくなりそうだ。人口減少も相まって、地方の公共交通機関は衰退し続けていくのか。熊本城が完全復旧したときには、どんな状況になっているのだろうか。

(熊本教育ネットワークユニオン true myself)