熊本教育ネットワークユニオン

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国東と中津へ

国東と中津へ

 

 何かの冊子に大分国東半島に長崎鼻というところがあり、7月下旬頃からひまわりが一面咲いているという写真と記事があった。長崎鼻というと鹿児島薩摩半島の最南端にあることは知っていたが、行ったことはない。他にも全国に同じ地名が何カ所もあるようだ。

 国東半島の根元の杵築・宇佐・豊後高田などには行ったことがあり、城や寺社などを何カ所か回った。国東の北部には行ったことがない。母の妹が結婚して国見町に住んでいたが、とうとう一回も行けなかった。それなら、まだ行ったことのない中津市中心にも合わせて行こうということになった。今は中津市になっているが、耶馬溪には来たことがある。青洞門も歩いて往復したり、車で通ったこともある。

 

 7月中旬、朝6時過ぎに熊本を出発した。まだ、福岡・大分中津などに警報が出ていた。小国から玖珠を通って長崎鼻を目指すことにした。途中57号線の菊陽辺りは平日の7時前にも拘わらず渋滞していた。7・8年前は、臨採で大津の翔陽高校まで朝から通勤していたが、こんな混雑はあまりなかったように思う。

 TSMCの工場が稼働したら、渋滞が一層深刻になりそうだ。県や周辺市町それに産業界は歓迎しているようだが、地下水の水位低下や汚染そして交通などへの対策は大丈夫なのか不安である。

 

 途中雨が降ってきたが、恋叶トンネルと名付けられた人道トンネルに寄った。壁にメルヘンチックな絵が描いてある400mほどの道を往復した長崎鼻に着いた頃には降っていなかった。駐車場は空いていた。歩いて回ったが、ひまわりの花が全くないどころか、葉も茎も見当たらない。案内図にひまわりの絵があるところもただの草っ原。今年は夏休みの8月に合わせているのだろうか。人工砂浜を歩いていたら、雨が降ってきたので引き上げた。

 雨が強くなってきたので、「道の駅くにみ」に寄った。歩いても濡れるだけなので、「道の駅くにさき」までドライブするしかなかった。結局、国東半島の北部の海岸沿いを時計回りに進み、東から西に横断した。半円の縁を回った感じである。

 早めに宿に向かうことにしたが、途中の道路上に通行止めの立て札が置いてあった。カーナビのVICS(道路交通情報通信システム)には反映していない。来た道を引き返したら、カーナビは通行止めの道に戻そうと指示する。結局、一度来たことのある豊後高田の「昭和の町」に寄ってから宿を目指すことにした。観光客らしき人が見当たらない。有料駐車場もがら空き。歩くことなく、昭和の雰囲気を残す商店街の狭い道を車で一回りしただけだった。

 

 宿は豊後高田の真玉温泉というところである。日帰りの温泉センターでもあったので、駐車している車も多い。奥の入り口に近い方に宿泊者専用という赤いコーンが立ててあった。全国旅行支援もまだ使えた。宿泊者専用の風呂もあったが、先ずは大浴場に行った。地元の人たちであろうか、割と混雑していた。露天風呂も賑わっていたので入らなかった。

 朝、宿泊者専用の風呂にも入ってゆったりと過ごせた。荷物を持ってフロントに行ったら、先に高齢夫婦が精算などをされていた。高齢男性の大きな声が聞こえた。「5分で済むところを30分もかかって」などと売店での妻の買い物にもいろいろと口出し。高齢女性もいつもやかましいとこぼされていた。私はおとなしく荷物番をして、クーポンを使った妻の土産買いを待っていた。男性が話しかけてこられた。北九州から来られたそうで、二人して高齢者マークを貼った軽自動車に乗って行かれた。私たちもお互いを「やかましか」とかよく言い合うが、あの男性の域までは至っていないということだけは一致した。

 

 中津城(奥平家歴史資料館)に行った。パンフレットに歴代城主の記述があった。黒田孝高(官兵衛のちに如水)が築城、長政(福岡に移封)。次に細川忠興(正室は玉;ガラシャ)、忠利(熊本に移封)。ここら辺の人名は知っている。石垣の積み方が黒田と細川で違っていた。その後、小笠原が4代。弓術や礼法の小笠原流があるが、その一族のようである。

 奥平家が江戸時代中期から廃藩まで城主。資料館名にもなっている奥平と聞いて、最初はピンと来なかった。展示資料に何代か前の当主の正室徳川家康と築山殿の長女亀姫とあった。そう言えば、今放送中の大河ドラマに出てきた。長篠の戦いの時、武田勢に取り囲まれた長篠城を守り抜いた城主に亀姫が嫁したことを思い出した。それが数代前の奥平信昌であった。

 大河ドラマで初めて知った鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の展示もあった。武田勢に囲まれ食料は尽きて長篠城はあと数日で落城という絶体絶命の状況。家康のいる岡崎城への援軍要請に命がけで行ったのが強右衛門であった。織田・徳川連合軍が翌日にも向かうことを一刻も早く伝えようとすぐに引き返したが、捕らえられた。籠城する味方を裏切って「援軍は来ない」と報せるよう強いられたが、「間もなく援軍が来る」ことを報せて味方を鼓舞したとされている。磔(はりつけ)の絵などが紹介されていた。

 戦国の三傑、織田信長豊臣秀吉徳川家康はTVドラマや映画に数多く登場してきた。その人物像は配役だけでなく脚本や演出によって全く別人のようだ古文書などによる史実と思われるものに至る捉え方もさまざまである。その古文書も後世になって書かれたものも多いようだ。今回の大河ドラマも今までとかなり違うように思う。放送された家康の長男信康と正室築山殿の死に至る経緯には首を傾げた。

 

 福沢諭吉旧居と併設された福沢記念館に行った。最初に肖像が福沢諭吉の一万円札が2種類表と裏が展示してあった。発行年が違う。そう言えば、一万円札は聖徳太子の後の新札は2回連続福沢だったと思い直した。大坂に生まれ、父の死後一歳で母子6人で中津に帰ってからの生涯が資料展示してあった。高齢の団体客が来られて賑やかであった。「学問のすゝめ」は最初の言葉しか知らないが、本も字も意外に小さかった。最後にビデオを10分ほど観た。

 寺町通りには10以上の寺院が立ち並ぶ。そこの通りだけが石畳風の舗装になっていた。宗派は浄土宗、日蓮宗法華宗などが見かけられた。一番大きく見えた寺は浄土真宗だった。拝観・入館料がいる感じでもないし、人口も多くはない。いらぬ世話だろうが、こんなに寺が一杯あって経営は大丈夫なのだろうかと思った。

 

 帰りは中津から耶馬溪、日田、菊池を通って帰ろうと思っていた。ところが大雨で山国川上流方面の国道が通行止め。途中から玖珠の方に抜けられそうなので、耶馬溪方面に向かった。女の人が流されて行方不明ということで、道路脇を歩く捜索の一団とすれ違った。青洞門へは通行止め。山国川に架かる国の重要文化財指定の石造アーチ橋の耶馬渓橋が一瞬見えたが、欄干が崩れていた。

 通行止め地点では迂回を指示する係員がおられた。途中片側交互通行もあったが、耶馬溪から玖珠に抜けた。すると、カーナビが思っていたのと反対方向を指示する。無視して進んだら、行きに通れた道が通行止めになっていた。迂回路で遠回りしてから小国そして大津に抜けた。

 帰りは3時間以上の連続運転した。さすがに途中であくびが出た。高速道路は使わなかったが、2日で440kmくらい走行した。

 

(熊本教育ネットワークユニオン true myself)