侏儒の呟き(12)~核・原発をめぐる七つの呟き~
〇「核兵器禁止条約」に日本が参加しようとしないことについて。ピアニストのいないピアノ協奏曲に似ている。主役となるべきものの不在。
〇広島平和祈念式典において日本の首相は今年も「非核三原則を貫く」と述べた。「世界が核廃絶に向かう気運を盛り上げる」とも言った。現実の政策、あるいは政治方針に照らしてこれほど無意味で偽りに満ちた言葉はない。
〇G7広島サミットはロシアを孤立させ核兵器使用を正当化させるために開かれたのだった。戦争当事国の片方であるウクライナの大統領を来日させ、声明において抑止力としての核を認めたということは、すなわちそうであるに違いない。サミットの存在意義が捻じ曲げられている。
〇「戦争ではなく外交を、兵器に頼らない世界平和を!」と訴えてきた被爆者たちの思いを、「聞く力」に乏しい首相が一つずつ打ち砕いていく。そもそも声明(共同文書)に「広島」の名を関すること自体が冒瀆ではないか。
〇核を使わせないために核を持つという考え方。どんな言葉で潤色しようとも矛盾した考えである。「核兵器で核戦争を起こさないようにするなどというのは根本的に逆立ちをした考え方である。…核戦争を起こさないようにするには核兵器をなくしてしまわなければならない。」これは湯川秀樹博士が50年も前に言われた言葉である。簡潔にして真実。曖昧な姿勢のままに「核の傘」で守られている国がどうして核廃絶の気運を盛り上げることができようか。
〇「フクシマ」以後、ほんのひと時、過去の原発政策を捉え直す動きが政財界、国民の間に広まった。ほんのひと時、である。ほとぼりが冷めて政治家どもは再び再稼働を模索する。目先の利益だけを追いかけて危険性には目をつぶるのだ。政治はどこまで荒廃していくのだろう。大江健三郎さんの言葉を借りれば、「巨大な悪の総量にバランスをとるだけの人間的な善の努力を期待する打算」(ヒロシマ・ノート」)である。何と都合のよい、甘えた生き方だろうか。これはもう頽廃と呼ぶべきである。
〇アメリカの調査では、原子力、石炭、地熱、風力、太陽光の各発電の中で、最もコストが低いのが太陽光で最も高いのが原子力だそうだ(「進歩と改革」2003年3月号)。岸田政権の原発回帰・新増設政策は明らかに世界の流れに逆行している。
〇福島原発の「処理水」の海洋放出について。これは呟きのレベルを超えるので、別の機会の論考とします。
~オウシャン・セイリング~