熊本教育ネットワークユニオン

活動の報告と相談の窓口です。またブログ担当者の学習の跡でもあります。過去の記事をご覧になるときは下のメニュー欄をクリックください

MENU

『ヒロシマノート』を再読する

      『ヒロシマノート』を再読する

 

 わが本棚の一隅に岩波新書ヒロシマノート』が立っている。立っていると言うより、他の本に圧迫されてほぼ窒息状態に近い。日に焼けて背表紙が黒ずみ、存在感さえ薄れているのが実状だ。

 今年3月、大江健三郎さんが亡くなったというニュースを聞いて、早くこの本を読み返さなければと思っていた。というのも、そもそも自分はこの人について何を知っているだろう。芥川賞ノーベル賞の作家であること、反核平和運動家であることは知っていても、彼の著作を真面目に読んだことがなかったからだ。この本に関しても冒頭に、原水禁世界大会をめぐる混乱と関係者の苦悩の場面だけが印象に残り、ほかに何が書いてあったかほとんど覚えていない。おそらく途中で投げ出してしまったに違いない。

 驚いたことが二つあった。まず奥付のページに「昭和46年6月、大学生協にて購入」とあった。何と50年も前のことだ。社会に出てから買ったわけではない。生き方はおろか、わが学問の方向性さえ定まらない学生時代によくぞ買ったものだという驚き。今思えば、思考力の基礎づくりになればと考えたのかもしれない。次に、各章、各ページのいたるところに傍線や書き込みが残っていた。途中で投げ出したわけではなかったのだ。とは言え内容に記憶がないし、その頃と今では己のモノの見方も変わっているであろうから、やはり読み直さないわけにはいかない、と感じた次第である。

 さて前置きが長くなった。そろそろ本論に入らなければならないのだが、一体どんな言葉で始めればよいものか。彼の思考の軌跡とそこから導かれる哲学を、自分なりにまとめてみようなどと考えていたのであるが、そんなものは自分の手に負えないということが分かった。邪念を捨てて、直接彼の言葉に耳を傾けてみよう。

 

 僕は広島の、まさに広島の人間らしい人々の生き方と思想とに深い印象をうけ

 ていた。……僕は、自分自身の感覚とモラルと思想とを、すべて単一に広島の

 ヤスリにかけ、広島のレンズを通して再検討することを望んだ。(プロローグ)

 

 作家として、いや現代を生きる一人の人間として、広島を自分のものとしなければならないという使命感、重大な決意ともいうべきものを、若き大江は感じたのであった。彼はまた、広島を記録する意味を次のように述べる。

 

 僕は、この二十世紀後半の地球の唯一の地、広島が赤裸々に体現している人間

 の思想を記憶し、記憶し続けたいと思う。広島は人類全体の最も鋭く露出した

 傷のようなものだ。そこに人間の恢復の希望と腐敗の危険との二つの芽の露頭

 がある。もし、われわれ今日の日本人がそれをしなければ、この唯一の地にほ

 の見える恢復の兆しは朽ちはててしまう。そしてわれわれの真の頽廃がはじま

 るだろう。広島をたびたび訪ねた日本人のひとりとして、僕は、僕自身が、広

 島に触発されてきたものを、いわば広島をめぐる僕個人の小さな思想とでもい

 うべきものを、ここに書きつけておきたいと思う。(第四章「人間の尊厳につ

 いて」)

 

 核兵器をめぐる昨今の動き、特に『広島ビジョン』なるものを共同文書として採択した先のG7の会合などは、まさに広島の政治的利用に過ぎず、大江さんが最も危惧した「頽廃」の兆しというべきものではないだろうか。とは言うものの大江自身も、「広島の外部の人間」であることを自覚せざるを得なかった。

 

≪広島の人間は、死に直面するまで沈黙したがるのです。自分の生と死とを自分

のものにしたい。原水爆反対とか、そういった政治闘争のための参考資料に、自

分の悲惨をさらしたくない感情……があります。≫

 

 皮膚科の医師が発したこの言葉が彼を戒める。そして、広島について沈黙する権利を持つ人々を「広島的人間」あるいは「真に広島的な人々」と呼び、それでも屈服しない人々のことを発信し続けてゆく。

 こうして彼は、たくさんの人々との出会いの中から自分の思想を形成していくのであるが、折々に文学的情景を挿入することを忘れない。第3章「モラリストの広島」における発狂した老人の話。死んでしまった孫に話しかける場面は、石牟礼道子苦海浄土」の中で杢太郎少年に語りかける爺さまを連想させた。二人の老人の言葉には何の飾りも気取りもない。魂の奥深さとともに、生きることの切なさ、いのちへの愛惜を教えられる、涙なしには読めない情景であった。(終)

 

(読後感として、全体の10分の1ほども書けただろうかと思っていますが長くなりましたのでここで終了とさせていただきます。読んでいただきありがとうございました。)            ~オウシャン・セイリング~