侏儒の呟き(13)~戦争と平和に関する六つの呟き~
〇侏儒とは…「背の非常に低い人、小人。不見識な人をあざけっていう語。」(旺文社国語辞典)。さらに私の解釈では「素人ながら意見を述べる者」。
〇今またハマスとイスラエルの衝突である。無辜の命が数百、数千と奪われている。一旦ミサイルが飛び交うと、人権とか人道という言葉は蹴散らされてしまう。ここでは宗教と民族の違いだけではない、何か怨念めいたものが災いしているように感じる。そして無限に繰り返される対立を見ていると、「殺し合うことは人間の属性である」という命題が成り立つのではないかとさえ思う。
〇洋の東西を問わず、人類の歴史には常に「いくさ」が付きまとってきた。それによってもたらされた悲嘆の総量を、たとえば樽に詰めて積み上げるとすれば、遥か宇宙の果てまで達しているに違いない。しかしどんなに積み上がっても、我々は地球のどこかで新たな戦争を始めるだろう。神から与えられたものが叡知とするならば、人類が自ら備えた破滅への渇望を、我々は捨てきれないからである。
〇さまざまな書物を漁っているうちに次の言葉に出くわす。
「悪は容易であり無数にある。善はほとんど唯一である。しかしある種の悪は、善と呼ばれているものと同様に、見出しがたい。この特徴のために、しばしばこの特殊な悪が善として通用する。そこに到達するには、善に到達すると同様に、やはり魂の異常な偉大さを必要とする。」(『パンセ』松浪信三郎訳)
悪を戦争、善を平和と把えればパスカルのこの考察は真実であると思う。「平和」の名を語って数々の悪が行われてきたのだから。
〇物欲や支配欲、名誉心の具体的表れが戦争だとしよう。人間にこれらの欲望を捨てろというのは無理な話だと思われる。したがって戦争や殺し合いを避けるためには、人間の属性を超えた強い力が必要となる。つまり、戦争そのものを抹殺しない限り、人類は滅亡の危機から逃れることはできないということだ。「戦争放棄」を謳う日本国憲法の先見性と気高さが際立つ。日本の政治家たち、特に政権与党はどうしてこのことを世界に訴えていかないのだろう。
〇強靭で理不尽な戦争に立ち向かうためのもう一つの方法は、戦争反対を訴える世界世論づくり以外に考えられない。小さい力でも地球全体に広がるなら、それは戦車やミサイルを止める力となるはずだ。「高校生平和大使」の活動に集う高校生たちが、さまざまな人や場面と出会い、思考力、実践力を高めていることは何と素敵なことだろう。(私はそれをただ傍観してきただけだったが。)今熊本では「ヒロシマ・ナガサキピースメッセンジャー平和の種まきプロジェクト」が、青木代表の信念と指導力のもとで立ち上がっていると聞いた。今後もずっと、平和運動の担い手として育ってくれることを願う。
〇綿や繭を紡いで糸を作り出すように、平和とは小さな力が結集して少しずつ紡いでゆくものであるに違いない。被爆者や戦争被害者たちの思い、平和運動家たちの願いを継承し発展させていくために、己にできることは何かを見つめること、それも不可欠な作業であると思う。
~オウシャン・セイリング~