山々を眺めて楽しむ(その2)
(1)
レーニア山はアメリカでも有数の高山です。標高は四、〇〇〇メートルを超えます。日本からの移住者はかつて「タコマ富士」と呼んで親しんだそうです。ただし、高いとは言ってもこちらは飛行機の中にいるのだから見下ろしていることになります。なんて美しい山でしょう。そのピンクの山肌が視界から消えるまで、私はずっと見続けていました。ところで、寝ぼけ眼をこすりながらニコニコして窓の外を見ている者がほかに何人いたでしょうか。そもそも大半の乗客にとっては、レーニア山など何の意味もなかったに違いないのです。
数日後、今度はラスヴェガスからサンフランシスコに行きました。途中、シエラネヴァダの上空を飛びます。この時も機内では、私一人がそわそわしていたのは言うまでもありません。「ヨセミテの上空を飛んでいます。」という機長のアナウンスが聞こえてきました。「何、ヨセミテ?」と途端に興奮しました。広大な国立公園です、見逃してなるものかと思いました。一瞬ですが、眼下に緑の森と大きな滝が見えました。この時も窓の外を眺める日本人乗客はほとんどいなかったと確信します。なぜなら、多くは眠っているか、起きてはいてもそもそもヨセミテに興味などなかっただろうと想像できるからです。こうして私は、アメリカを旅行している間は常に、貪欲なまでに窓の外を眺めていました。山ではありませんが、そのほかの風景として白い砂漠と壮大なグランドキャニオンが、今でも忘れられない思い出です。
こういう感情は、たとえば長く憧れていた有名人や高名な絵画に出会ったという人の心理状態と同じではないでしょうか。私の場合はたまたま、それが山であり自然の風景だったということです。
(2)
平地から山を眺める場合の楽しみは稜線の美しさにあります。実に多様な線があって、自然の造形に驚くばかりです。決して誇張して言っているのではありません。しかしその稜線だけを眺めているわけではないのです。空との境をなす線のその下には山体そのものがあります。だから稜線の美しさは山体の美しさでもあります。もしそこに、尾根や谷が刻み込まれていれば、山は全体としてより多くの表情を見せます。絵画でいうところの、マチエールということになるのではないでしょうか。もちろん、美しいと感じる山がすべての方角から眺めてそうであるとは限りません。富士山や槍ヶ岳はきわめて稀で、多くの山は限られた方角から眺めた時にのみ、その最高の美しさを発揮します。
(3)
車を運転しているとハッとするような美しさに出合うことがあります。思わずその場に車を停め、いつまでも眺めていたくなります。天候や光の加減によって、山々は刻々と表情を変えますから。「そんなに好きならスケッチすればいいではないか。写真にとればいいではないか。」という声が聞こえてきそうです。遠方へ旅をした時とか、二度と来ることがない場所であるならそれもいい。しかしここでは、自分の生活範囲で見える山々のことを語っているのです。だからその場で眺めるだけで十分なのです。加えて、カメラは人の眼ほど広い空間をとらえることができない。特に奥行きの感じが現れにくい。もちろん、その性能や写す人の技術にもよりますが。スケッチの場合はどうか。スケッチも似たようなものだと思います。限られた範囲しか画帳には収まりません。
実は画帳と鉛筆はいつも車に積み込んでいるのです。本当にその気になった時、いつでも使えるように。しかし実際に山を眺めて画帳を開いたことはめったにありません。その目的で出かけている訳ではないからです。自分で描くことをしなくても、すでに広大なキャンバスに収まった油絵がそこにあるのですから。
読んでいただき有難うございました。最後に、山々を眺めて詠んだ四季の俳句(習作)を付記します。
山襞のパレットを背に揚ひばり(春)
夕涼や肥後の山々澄みにけり (夏)
秋冷や無言の富士が朝もやに (秋)
日が落ちて寝支度急ぐ冬嶺かな(冬)
~~オウシャン・セイリング~~