余寒の森で
樹林の中の彷徨はいつも夢想を誘う。花の春夏、紅黄葉の秋はもとより、余寒のこの時期にあっても木立を仰ぎ落ち葉を踏んでいると、どこからか妖精の声が聞こえてきそうな気がする。
そこに立つ裸の木々や地面いっぱいに広がる朽ちた葉っぱはまぎれもなく森の現実であろう。彼らはたまたまこの森に生まれたのである。そして根を張り、枝を伸ばし、再生のために葉を降り落とすという、自然のルールに従って生きているに過ぎない。よそ者が、たまたまそこを訪れてやたらと感傷的になるのは、だから大きな勘違いかもしれない。心情のままにその場の風景を美化したりすれば、それは貴重な何かを見落とすことになるのではないか、ありのままの姿から目を背けることになるのではないか。
とは言えやはり、この時期の林の中には夢や幻想が潜んでいるように思えてならない。それは決して人間の、身勝手な捩れた感覚だとは思えない。たとえば、櫟や木楢を見上げてみよう。夏の衣をすっかり脱ぎ捨てて、雨や雪の重みを支える必要がなくなった今、寒さで引き締まった幹が小枝を広げ、光を浴びていないか。梢の先端では緩やかな風と戯れていないか。芽を吹くには少し早いが、木々は決して慌てるそぶりを見せず、巡ってきたこの季節を悠々と楽しんでいるようである。目を瞑るとオーボエか何かの、ゆったりとした旋律が聞こえてきそうだ。それは森が奏でる早春の賛歌に違いない。もし人に何も見えず何も聞こえてこないなら、それは錆びた感覚、凍てついた思考力というものではないだろうか。
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冬晴れの午後のひととき
戻ってきた蒼空と連なる雪の山々が
静寂にして荘厳な風景を描いていた
こんな時は
わが身辺への思い煩いも
国の舵取りへの不満も
動乱に揺れる世界への不安も
みんな忘れてしまって
ひたすらに、ただ子どものように
冬の優しさに包まれていたいと思う
この美しさが世界を包んでほしいと思う
(ネットワークユニオン・S)