侏儒の呟き(14)~三たび、「核」をめぐる呟き~
〇およそひと月前、核兵器禁止条約の第2回締約国会議が国連本部で開かれた。ガザやウクライナで狂気のような戦争が続いている最中のことだった。だが国内では、その報道や論評は一瞬で終わってしまった。世界の指導者たちが真剣に国際情勢を憂え、日本から参加した被爆者が「核廃絶こそ最善の道」と訴えたにもかかわらず。日本政府の無関心と無責任には怒りが湧くが、その姿勢を批判しようとさえしないメディアの鈍感さにも無性に腹が立つ。
〇「核兵器禁止条約」とは。第一条に、核兵器の開発、実験、製造、使用を禁止する、また保有や移譲、使用の威嚇も禁止すると謳う。核兵器廃絶に向けた被爆者たちの努力にも触れてある。
〇”核兵器を廃絶する”。この崇高な理想に向かって世界の多くの為政者が連帯し、結束していることに敬意を表する。だがその崇高さのゆえに、すでに核を持ってしまった国々がそっぽを向く。実現できるはずがない、と言わんばかりに。憲法に高邁な理想を掲げる日本が同じくあっかんべえしているのがいかにも見苦しい。
〇甲府市議会は6月に、日本政府に「核兵器禁止条約の署名・批准を求める」請願を採択した。続いて9月に、「第2回締約国会議にオブザーバー参加するよう求める」意見書を可決した。野党リベラル系だけでなく自民党議員団も確固たる意思を示したそうである(社会新報9月20日)。まことに勇敢な行動だと思う。こんな地方議会があることにホッとする。それでも日本政府は、相変わらず厚顔無恥な態度を取り続ける。
〇核兵器が地上から一掃されたと仮定してみよう。しかし、兵器を作る知識や技術を一掃することはできないだろう。いったん戦争が始まれば、その能力を有する国は再び危険な魔力に取り付かれるに違いない。ということは、戦争そのものを地上から抹殺しない限り、人類は滅亡の危機から逃れられないことになる。「戦争放棄」を謳う日本国憲法の先見性がここでも際立ってくる。
〇その価値に気づかないまま、日本は再び戦争国家へとひた走るのだろうか。人類は他のすべての動植物を道連れに、地球もろとも破滅へと向かわせるのだろうか。
〇平和を紡ぐためにかみしめたい言葉。
(1)
焼け爛れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める
……
何の為に
なんのために、…
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない(峠三吉「原爆詩集」)
(2)
私たちのまえには、もし私たちがそれをえらぶならば、幸福と知識と知恵の
絶えない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、その
かわりに、私たちは死をえらぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に
むかってうったえる――あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のこ
とを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけ
ている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横た
わっている。(「ラッセル・アインシュタイン宣言」1955年)
~この一年、読んでいただきありがとうございました。オウシャン・セイリング~